以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 新・これが本物の NLP だ!」第 97 号 (2008.11.12 刊) からの抜粋引用です。

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今回は、1) 「北岡泰典ダイヤモンド社刊新著出版情報」、 2) 「NLP 徒然的考察」を発信させていただきます。

1) 北岡泰典ダイヤモンド社刊新著出版情報

当初の構想からだいぶ時間が経ちましたが、私の二冊目の著書となる新著が月末にダイヤモンド社から出版されることになりました。

タイトルは以下のとおりです。

『一瞬で新しい自分になる30の方法』
(副題: 『24時間ストレスフリーでいられるNLPテクニック』)

本書については、Amazon.co.jp で以下の紹介が始まっています。

商品の説明
内容紹介
世の中の多くのビジネスパーソンが抱えているストレスのもとになっている悩みや心配事に対して、脳を前向きに、快の状態に変換できるNLPのテクニックを使って、ストレスフルな状態をストレスフリーに変えるための実践な方法を提示する。気になる症状や悩みの箇所を拾い読みして、実際にストレス解消のためのテクニックを試してみるというアクションと気付きを促すためのワークブック。

商品の詳細
単行本
出版社: ダイヤモンド社 (2008/11/29)
ISBN-10: 4478007462
ISBN-13: 978-4478007464
発売日: 2008/11/29

本書は、30 のストレス解消 NLP テクニックをQ&A(質疑応答)形式で紹介しています。

私のノウハウを開示しすぎているという事前の感想もありますが、この形式の NLP 書は国内では初めてだと思いますので、NLP の普及につながればと心から願っています。

今後、現在予定している予約特典、出版記念会等に関する情報を、決定次第、本メルマガ等で告知することにします。

2) 「NLP 徒然的考察」

では、本題に入ります。

先週の私の吉祥寺の「基礎 NLP 体験ワークショップ シリーズ」での参加者とのやり取りで興味深いことが起こったので、紹介したいと思いました。

まず、私の最近の NLP ワークは、NLP 共同創始者のグリンダー氏の最近のワークの影響を受けて、と言っても間違いではありませんが、「SRCF/C (状態管理・ラポール・カリブレーション・柔軟性/首尾一貫性)」の技能習得と、意識と無意識の間のラポールを達成する「無意識 (= 催眠) ワーク」が中心となっています。

私自身は、「瞑想と NLP」、「催眠と NLP」といった、非常に興味深い統合ワークのエリアにも、大きな興味がありますが、前者の「瞑想と NLP の統合ワーク」については、1) 80 年代の欧米における徹底的瞑想修行の結果、現在は、24 時間が「ヴィパサナ (観察) 瞑想」状態になっている、2) 最近参加した瞑想道場での自分自身の瞑想体験から言っても、すでに、ある意味で NLP を通じて瞬時に達成できる瞑想状態を、なぜ 1 時間も足を痛めながらも、座り続けた上で達成する必要があるのか、という強い思いがある、3) 私が尊敬してやまない 8 世紀のインド人哲学者、シャンカラチャリヤは、「自己実現 (解脱) は、『真の私 (アートマン)』を知るだけで充分で、その過程に関して、瞑想さえも障害になりえる」と主張している、等といった理由から、今後、ことさら私が瞑想そのものを人に教えることはない、と今考えています。

つまり、今後、別の瞑想家との共同ワークを開講することはありえると思いますが、私の今の立場は、2500 年に前にパタンジャリが創始した瞑想の伝統と方法論は、NLP が取って代わることができる、というものです。

以上のことは、ある時期に自分の成長にとってぜひとも必要だった方法を、その時期の目的を達成した後も後生大事に固執しすぎることは、気違いじみている場合がある、という観点から語っています。

実際、私の精神世界の師匠は、「建物の屋根に登るためには、梯子が必要だが、いったん屋根に登れば梯子は不要になる」とか「川を渡るためには舟は必要だが、渡り終わった後も、後生大事に舟を頭の上に担ぎ続けるのはクレイジーだ」とかいった比喩で、このことについて強く警告しています。

ちなみに、この師匠は、「道で自分の師匠に出会ったら、その師匠を殺せ!」という比喩も使いましたが、究極の意味では、現在、私の師匠も、私にとっては「不要」になっていると豪語しても、別段私自身は不自然に感じません。

上のように思える自分を最終的に作ってくれたのは NLP ですが、しかし、私は、常に、自分のワーク中で参加者に対して、「私は、昔から究極の『懐疑主義』を貫いてきています。そしてすべてを否定してきた上で、最後にどうしても否定できないものとして、現在、(否定的に) 『しかたなく』 NLP を選んできているだけです。もし仮に、明日 NLP 以上のものを見つけることがあるとしたら、即 NLP をゴミ箱に捨てさる用意があります。そのときは、私は (懐疑主義者である) あなたと肩を組んで、NLP をすごいと言っていた北岡を共同で批判していることでしょう」と言ってきています。

実際、私は、いつの日か (もしかしたら死後かもしれませんが!) NLP さえをも自分には不要だと思っている自分自身を想像することは、それほど難くありません。

(ちなみに、この「一期一会」性について、私は、本メルマガの第 10 号で以下のように述べさせていただいています。

「NLP では、特定のシステムの異なる各部分の間の整列または調整を意味する『首尾一貫性』という概念が使われます。どのようなシステムでも、そのすべての部分が首尾一貫しているとき、すなわち、互いに整列しているときに、最高のパフォーマンス レベルで機能できることは容易に理解できることです。

ある人の典型的な首尾一貫性の欠如の例は、その人が、左右に首を振りながら『はい、私はまったくあなたと意見が一致します』と言うとき、または、その人がほとんど聞きとれない声で『私は非常に自信があります』と言うときに観察することができます。典型的には、相手にこのような矛盾に見出す人々は、困惑を覚えるか、または (意識的、無意識に) その人の言うことを信じなくなります。

仮に効果的で、影響力をもつことを望むなら、私たちは、自分の他人とのコミュニケーションで首尾一貫している必要があります。

興味深いことに、このコミュニケーション概念の『首尾一貫性』は、精神主義的な意味ももっています。すなわち、上記に示された首尾一貫性は『同時的首尾一貫性』と定義され、この種の首尾一貫性は通常、偉大な瞑想家が見せる非常に顕著な局面の一つです。一方で、これらの瞑想家は同時に、『連続的首尾一貫性の欠如』を見せる傾向があります。すなわち、彼らは、『今ここ』の瞬間にい続けることに集中しきっているので、今日言うことが昨日言ったことと抜本的に矛盾する場合があります。他方、『今ここ』の経験をまったく見逃している『凡人』は、皮肉なことに、『連続的首尾一貫性』を維持しようとすることにあまりにも固執しすぎている場合があります。」)

ということで、今後私は、「瞑想と NLP の統合ワーク」は行わないと思いますが、「催眠と NLP の統合ワーク」は継続していくつもりでいます。

この「催眠と NLP」ワークの中で、充分「瞑想と NLP の統合ワーク」の内容がカバーできるであろうことは、NLP 共同創始者のリチャードバンドラー氏がその最新の著書で語っている次の非常に興味深い発言によっても裏付けられています。

「人々は、『催眠』と『瞑想』の差異について混乱している場合があります。私は、二つともよく似た状態だと思います。ただし、催眠には方向性、始める前に決めた目的がありますが、瞑想はもっと『無定形』です。個人的には、変性意識に入る場合、私は何かをしたいと思いますし、いつその状態に入っているか、いつ出てきているか知りたいと思いますし、その状態で何をしているか知っていたいと思います。瞑想には充分な方向性がありません。[このため、私は催眠の方を好みます。] しかし、要は、個人的な好みです。」

ということで、先週の「基礎 NLP 体験ワークショップ」で、意識と無意識のコーディネーションについて説明しているとき、私は、上述した「同時的首尾一貫性」と「連続的首尾一貫性」に関連して、ふと以下のように発言させていただきました。

「意識的には、常に『同時的首尾一貫性』を達成するように努めていればいいと思います。『連続的首尾一貫性』の方は、無意識ちゃんがかってにテイクケアしてくれるはずです。この構図は、意識的には、カリブレーションにさえ注意を払っていて、高質の入力だけを無意識ちゃんに伝えることだけに専心していれば、どのような最高のパフォーマンスを (アンカーリングを通じて) 発揮してくれるかは全面的に無意識ちゃんに任すことができる構図と似ていますね。」

非常に興味深い「発見」だと思います。

もう一点、おもしろいことが起こりました。その先週の「基礎 NLP 体験ワークショップ」後の感想としてある参加者が「今回紹介された『心身論理レベルの整合』ワークの時に自分は『必要な時に必要な情報が自然に入って来る』と言いましたが、もしかしたらそれは、先生が資料に書かれておられる 『最も無意味に見える行動でさえ、自分の内部の高レベルすべての反映であり、具体化である』 ということと関係があるのかもしれないなどと考えたりしました」とメールを送ってこられましたが、私自身は、この文章をどこで書いたか判断できなかったので、以下のように返信させていただきました。

「これは、私のマニュアルにあった文章ですか? この文章は、私がどこかで書いたようにも思えますが、このように、文脈なしに単体で引用されると、確かに極めて奥の深い意味のことを言っている『ように』思えることが非常に興味深いです。

通常、私の文章は前後の文脈と、一定の前提を踏まえて書いたり話したりしているので、『それほど』すごいことはなく、『ごく当たり前』のことを言っているという自己認識がありますが、もちろん、そのような文脈と前提がわからない (私のワークの参加者の) 方が、私の『断片的』発言を聞くと、今、私が上の (自分自身の、と思われる) 断片的文章に出会って意味深に考えたりしてしまうことと同じことを感じているのかもしれない、ということが、今体感覚的に腑に落ちました (笑)。」

確かに、私のごくあたりまえの (と私が思う) 発言も、私自身のもっている前提なしには、意味深であったり、場合によっては、意味がなさなかったりすることがあることが、改めて実感できた次第でした。

作成 2024/1/2