以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 新・これが本物の NLP だ!」第 40 号 (2005.10.5 刊) からの抜粋引用です。

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かなり秋めいてきたようにも思えます。過ごしやすい季節になりました。徒然考を続けたいと思います。


1. 東京第五期プラクティショナー コース開講される!

先週末にすでに日本 NLP 学院の東京第五期プラクティショナー コースの第 1 モジュールが開講されました。これは、通常であればこのコースは 11 月終わりから始まるべきものだったのですが、来年のゴールデン ウィークに開催されるグリンダー氏の各 NLP 上級コースの日程の影響で、約 2 ヶ月早めに開講されることになったものです。

そのためもあり、第三期、第四期の東京プラクティショナー コースの参加人数はかなり多めでしたが、今期の参加者数はこじんまりしたものでした。

その「少数精鋭」の参加者の半数以上は過去に瞑想を実践してきた方々であったので、私もクライントの志向重視の原則から「瞑想と NLP」の観点に基づいた説明が多めのワークとなりましたが、個人的には、かなりおもしろい、参加者に深い自己変容をもたらせるようなワークになったかと認識しています。

特に、2 日目にある参加者から「昨日行った『4Te/4Ti 区別』演習を自宅で何回かやってみましたが、あまりにも深い意識の変容が起こって (『観察者』の視点も強化され)、いったい何が起こったかわかりません。北岡先生は私に何かトリックをかけたのですか?」といった、私にとってはほぼ最高の賛辞に近いコメントをいただきました。

「4Te/4Ti 区別」演習は、本来は自己催眠誘導テクニックだったものを私がこの目的に借用しているものですが、まず「今ここで起こっていること (4Te)」を VAK の知覚体系の観点から 3 つずつ口に出して表現して、次に「過去のある時点の体験で起こっていたこと (4Ti)」について VAK の知覚体系の観点から 3 つずつ口に出して表現した後、4Te に戻り VAK 体験を 2 つずつ表現して、次に 4Ti に戻り VAK 体験を 2 つずつ表現した後、最後に、4Te に戻り VAK 体験を 1 つずつ表現して、次に 4Ti に戻り VAK 体験を 1 つずつ表するという、極めて簡単な演習です。

ただ、簡単な演習による効果が必ずしも浅いとはかぎらず、このように非常に深い「変性意識」を誘発する場合もあります。

この方に起こっていたことは、おそらく、今まで瞑想その他の変性意識を導き出す手段を使っていろいろな実験をされてきていて、そのためにご本人は、これまで非常に幅広い「意識のスペクトラム」に (おそらく無意識的に) アクセスできていたのだと思われます。ただ、ご本人自身も示唆されたように、この幅広い種類の変性意識のアクセスのし方に今までは秩序と整合性がなく、ただ散漫に無秩序にアクセスしていたところが、この簡単な演習により 4Te (今ここの瞬間) を基準として、過去に自分がアクセスできた変性意識に、今度はベース基地 (4Te) を中心にしていわば「放射的」に、非常に組織立った形でアクセスできるようになったものと思われます。

また、 このようにすでに一定の瞑想体験をされた人は、非常に深い変性意識 (トランス状態) にほぼ自由にアクセスできていたと思いますが、今まではその変性意識をいわば今ここで起こっている 4Te であるかのように「錯覚」していたところが、この演習により、そのトランス状態がどれだけ鮮明で、どれだけリアルに見えようとも、所詮は 4Ti でしかなかったことを右脳的に (実体験的に) 認識できることで、自分の意識のコントロール度が飛躍的に高まり、これにより、ますます深いトランス状態に自由自在にアクセスでき始めたのであろう、という点も特に指摘しておく価値があります。

いずれにしても、この 4Te/4Ti のインターフェイスに関しては、私は、本メルマガの第 10 号等で以下の点を示唆してきています。

「私は、だいぶ以前瞑想の修行をしていたとき、 (西洋人の) 瞑想の先生に『私は、意識が自分の中に向かう場合と外に向かう場合があることはわかりますが、このインターフェイスの区別はどのようになっているのですか?』と聞いたことがあります。この先生は、『それは自分自身で経験して確認するように』と答えました。今振り返って考えると、この先生は弟子にそのインターフェイスを論理的に口で説明することはできなかったのだと思いますが、上記の『4Te』と『4Ti』の区別により、このインターフェイスが見事に口で論理的に説明できるようになっていることが判明します。このことは、今まで伝統的にはすべて修行者の経験則だけに頼り、その師匠も口で説明できなかったような東洋的な方法論を、西洋心理学の NLP は左脳思考的に、論理的に説明できるようにした数々の例の一つになっています。」

ということで、NLP は、直感的な瞑想者が何十年間にわたって瞑想し続けても達成できないような深い変性意識に至る方法をものの見事に論理化、公式化することに成功していて、たとえば、10 分程度でその方法を人に伝え、かつ達成することを可能にしているのです。(ここで紹介されている例以外にも、本メルマガの第 36 号では、私が「三段階分離」と呼んでいる NLP 個人編集テクニックにより、通常であれば何ヶ月、何年かけても習得できないであろう「自分の外側に自分自身を見る『観察者』を置く」という瞑想に関して非常に重要なプロセスが「確実な形」で 10 分足らずで達成できてしまうという実例が紹介されています。)

ただ、NLP のこの「革命性」は、その方法を使っている人が深い主観的体験をもってきていない場合には、理解されない可能性もあります。これは、端的に言って、NLP は、本人の中にまだ存在しないものをその人にアクセスさせることはできないからです。

東京第五期プラクティショナー コースの第 1 モジュールは、以上のような特別な「テースト」を含みながら講義されました。私としては、非常に新鮮なワークでした。

なお、この東京第五期プラクティショナー コースは来年に開催されるグリンダー氏の各 NLP 上級コースの日程の影響で、約 2 ヶ月早めに開講されることになりましたが、今後も本コースへの参加を希望される方が増えると予想されます。今回の早期コース開講は、あくまでも特別処置であったので、この点を含めて、日本 NLP 学院事務局では、本プラクティショナー コースの第 2 モジュールからの参加者に対して、認定書取得等に関して何らかの優遇処置を取ることを検討しているようです。本プラクティショナー コースの第 2 モジュール以降の参加に興味ある方は、以下の日本 NLP 学院の Web サイトにアクセスしてください。

http://www.nlpjapan.com/


2. パターン中断と創造性

先号のメルマガで紹介した NLP 共同創始者のジョン グリンダー氏の特別メッセージに以下のような「マスター プラクティショナー」に関する定義がありました。

「『NLP マスター プラクティショナー』は、NLP プラクティショナーの必要条件をすでに満たし、その上で、NLP の卓越性の基本的パターンについて知的に口で説明することができ、NLP の前身となっている分野の知的および歴史的背景について一定の理解度をもち、これらの基本的な適用パターンについて複数のバリエーションを使いこなせる人です。この、最後の特徴は特に重要です。NLP の基本的パターンについて複数のバリエーションを使いこなせるということは、マスター プラクティショナーは、基本的パターンの書面に書かれてある順序 (すなわち、手順) から自分を解放する方向に大きなステップを踏み始めたことを含蓄しています。基本的パターンを効果的に適用しているマスター プラクティショナーを見ているとき、能力のある観察者でも、そのマスター プラクティショナーが適用しているパターンを特定、分類するのはなかなか困難です。このように、マスター プラクティショナーの行動は NLP のパターン化原則に関して完全に体系的ですが、完全にクライアントの要求に焦点を合わせているので、マスター プラクティショナーは、典型的に、目的達成のために単一のパターンを使わずに、クライアントの変化する要求をカリブレートしながら、一つのパターンの局面から他のパターンの局面に優雅に正確に移ることができます。」

この意味は、マスター プラクティショナー (あるいはそれ以上の資格をもった NLP ピア) は、プラクティショナーとして基本的な NLP モデル/テクニックを学び、習得した後は、自分の「オリジナリティ」を出しながら学んだパターンを「意識的にブレーク」してもよい、ということを意味しています。ただし、グリンダー氏は、そのようなパターン中断をしてオリジナリティを出すまでは、基本的なノウハウはきちんと教えられたとおりに学ぶ必要があることを、示唆しているようであることは注目に値します。

これは、創造的なアーティストのような人々は、基本を学ぶことをよしとせず、初めから自分のオリジナリティを出そうとして「パターン中断」を達成しようとしているので、結局は、たとえば、ABC の操作手順を学ぶ必要のあるコンピュータをいつまでたっても使いこなせないでいる一方で、本当の意味で創造的な人々は、基本の知識を完全マスターした後で、その基本的パターンの適用のし方においてちょっとした「パターン中断」をしながら人には一見まねのできないオリジナリティを達成していく人々であるという、いつも私が指摘している皮肉な事実を裏打ちしています。


3. 「ガチョウは外だ」再考

私は、メルマガの最近の号で、「ガチョウは外だ」の比喩について言及してきています。

この比喩は、私たちは、マインド (形而上学的思索、あるいは NLP でいう「4Ti」) の中にいるかぎり、ありとあらゆる問題に際限なく直面し続ける一方で、「今ここ」の実存的な瞬間には問題がいっさい発生する可能性がないことを示唆しています。この「ガチョウは外だ」のスペースは、いわゆる「悟り」と等式化することも可能でしょうし、「ノーマインド」の世界と形容することもできます。NLP 的には、「前提をドロップして 4Te にいること」とパラフレーズすることもできるでしょう。いずれにしても、自分のマインド (NLP で一番近い定義は「世界地図」です) を超えて外に出ることができなければ、たとえばディルツの心身論理レベルを理解することも、自己変容を起こすことも、クライアントに意識の変容を引き起こすこともできないことは自明です。(私のお気に入りの CD-ROM の比喩で言えば、自分のクライアントよりも多くの数の CD-ROM を使いこなせていないかぎり、クライアントに最も適した (クライアントの現在の世界地図よりも大きな)、選択肢に満ちた代替の世界地図をオファーできないことは、明らかです。)

ここで非常に興味深いことは、私の経験では、NLP を使っては「ガチョウ (すなわち、自分) は瓶の外に出る」ことはできない、という非常に逆説的な事実です。おそらく、NLP が革命的な方法論であることを期待して、NLP を学んだ後最終的にそうでないという結論に達してしまう NLP ピアがいるとしたら、それは、この点を誤解しているからではないでしょうか?

この、もしかしたら、非常にショッキングな私の見解を説明させてください。

私は本メルマガの第 17 号の末尾に以下のように書かせていただきました。

「このような [NLP] コースでトレーナーが皆さんに教えられることは、青空を覆い尽く している白い雲を取り除くための (否定的な) 方法論です。トレーナーは、その無垢な青空自体を直接的に皆さんにもたらすことは絶対不可能で、青空を見る行為自体は、皆さんの一人一人に任されています。(ここでいう「青空」とは、人によっては「ピーク パフォーマンス」でも、「深い愛情」でも、「心の平静さ」 でも、「深い瞑想」でも、「悟り」でもありえます。) そして、白い雲を完全除去するための最高の方法論は、まず間違いなく NLP です。」

つまり、NLP はあくまでも、青空 (すなわち、瓶の外) を覆っている白い雲 (すなわち、瓶)を取り除くための「否定的方法論」としては、おそらく現在世界最高の方法論でしょうが、非常に残酷なまでに残念なことに、自分がその青空で何を見るかは、個々人一人一人の資質、努力、コミットメントに依存していて、それは方法論としての NLP といっさい何も関係ない、ということです。

あるいは、NLP は目的を達成するための最高の方法論であるかもしれないが、NLP はその目的を個々人にもたらせることは不可能で、NLP の実践者その人自身以外にその目的を決定する人はいない、と言い換えることもできます。

さらに言い換えると、私たちは、瞑想、催眠、音楽、アート、物理療法、心理療法、セックス、ドラッグ、断食、感覚遮断、(交通) 事故、親しかった人の死、その他の手段/出来事を通じて、意識的にあるいは偶然に「瓶の外」に出る機会をもつことがあり、その場合、自分がそのような手段で過去に到達しえた程度の精神状態を NLP によってアンカーし、たとえば 1 日 86,400 秒その精神状態にアクセスし続けることができるだけなのです。

すなわち、自分の過去に「瓶の外」の経験をもったことにない人々がどれだけ集中的に、どれだけ継続的に NLP を研究、実践、習得しても、自分の中にまだないものを再現したり、他の人の中に引き起こしたりすることができないのは、火を見るよりも明らかです。このことは、グリンダー & ディロージャ共著の『個人的天才になるための必要条件』で定義されている NLP のルーツである英国経験主義の原則、「マインドの中で、感覚から入力されなかったようなものはいっさいない (There is nothing in the mind which did not come from the senses.)」で示唆されています。

私は、個人的には、この理由にこそ、国内外を問わず、「NLP はテクニックの寄せ集めにしかすぎない」という印象しか与えることのできない NLP トレーナーが現れるのだと考えています。また、逆に、「瓶の外」に一度でも出たことのある人であれば、たとえその人が NLP ピアでないにしても、NLP 共同創始者の二人は、1970 年代初めにカリフォルニアで、いろいろな変性意識の実験の結果「瓶の外」に出ることに成功し、そのスペースから「表出体系」、「メタモデル」、「サブモダリティ」等の革新的な NLP モデルを発見したこと、かつ、瓶の外に出ないかぎりそのような発見を二人がすることはありえなかったことを、直感的に理解できるはずだと、思っています。


4. 達人の基準について

上記で「パターン中断と創造性」と「マインドの外に出ること」について書かせていただきましたが、私は、個人的には、ある分野で学習者が「達人」になるプロセスは、これら二つのメカニズムと密接に関連していると思います。

私は、本メルマガの第 27 号で以下のように書かせていただきました。

「語学の分野で、該当の人が該当の言語の達人になったかどうかを見極める判断基準は、その人が理解できない文章に出会ったとき、理解できないのは自分の読解力がまだ足りないのかまたはその文章自体が『誤形成』なのかを的確に言えること、と考えています。この判断基準は、コンテンツは変わったとしても、他のどの分野でも、達人かどうかについて適用できる、と思われます。」

すなわち、上述のグリンダー氏の「マスター プラクティショナー」の定義にあるように、ある学習分野を習得し始めたときは、基本的な学習内容とパターンを無条件に学び、受け入れる必要がありますが、学習上である一定の「危機的臨界点」を超えると、突然、個々の要素、詳細ではなく、それらが有機的に、ホーリスティックに結びついている「全体像」が見えるようになる場合があります。(本メルマガの第 12 号では、「この現象の最も一般的な例としては、語学聞き取りを集中的に外国語の衛星ニュース番組等を通じて勉強しているときに、数ヶ月間いくら集中して学んでもほとんど聞き取れなかったのに、ある時点で、目から鱗が取れたように、突然すべてが聞き取れるようになることがあることが挙げられます」 というふうな例を紹介させていただきました。)

この「危機的臨界点」を超えた後は、それまで学んだ基本的パターンを意識的にブレークして、マスター プラクティショナーとして自分の創造性を出してもよい、というのが、私が理解している上述のグリンダー氏のメッセージの意味です。

ここで非常に興味深いことは、このような危機的臨界点を超えた NLP ピアまた語学学習者を含む任意の学習分野の学習者は、その学習体系の個々の構成要素ではなく、目に見えない全体的つながりが見えていますが (このためにこそ、たとえば、このレベルの語学学習者は「その人が理解できない文章に出会ったとき、理解できないのは自分の読解力がまだ足りないのかまたはその文章自体が『誤形成』なのかを的確に言」うことができるわけです)、まだ個々の構成パターンを学習中の人々は、その「達人」がどのレベルからどのような意識的、無意識的判断をしているかは、定義上、絶対に理解することはできません。

この事実は、相手より少ない数の CD-ROM を使っている人には、その相手の人が表現しているモニタ上でその人が意図している情報を読み取れないメカニズム (この三次元的情報が二次元のモニタ上で失われてしまう比喩については、本メルマガの第 35 号の「3. 自由度の違い」のセクションを参照してください) とも関連していますし、どのように「ガチョウが瓶の外に出るか」のメカニズムとも密接な関係があります。

作成 2023/11/6