以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 新・これが本物の NLP だ!」第 34 号 (2005.7.13 刊) からの抜粋引用です。
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今回も、徒然なるままに筆を運びたいと思います。
1. 『Magic of NLP ~解明された魔法~』改訂版出版される!
2004 年 4 月に出版された NLP の分野における最良の入門書である『Magic of NLP (原書タイトルは、『Magic of NLP Demystified (解明されたNLP の魔法)』) の改訂版が今月中旬出版されることになりました。すでに書店の店頭で購入できるようです。
出版元はメディアート社、定価は 2000 円+税、ISBN は 4-916109-95-3、著者はバイロン A ルイスとR フランク・ピューセリック、訳者は北岡泰典です。
本書と私のもう一つの翻訳書である『ビジネスを成功させる魔法の心理学』 (メディアート社) は、私が、NLP 入門書の「Must」本と見なしている 2 冊の書ですが、特に、『Magic of NLP』がこういう形で改訂版出版されることは喜ばしいかぎりのことです。
初版の本訳書は、文体が「翻訳調」で、読みづらいという感想もあったようですが、今回の改訂版では、文体と言葉遣いが大幅に改訂され、さらにサイズもひとまわり大きくなり (B5 版から A5 版になりました)、ページ数も大幅に減ったので、ずいぶんと読みやすくなったと思われます。(私個人としては、初版の文体の方が私の個性がよく出ていると思っているのですが。)
『Magic of NLP』につきましては、「NLP 学習者必携の書」として、今後とも版を重ねていくロングセラーとなることを心から願っていますが、私のこの本への思いを、以下の本メルマガ第 23 号からの引用文で要約したいと思います。
「『Magic of NLP』の訳書のオンライン等での書評は「何も目新しいものはない」といった否定的なものになっているようですが、これは、その後のほとんどすべての欧米の NLP 書がこの入門書を元にして書かれているので、先に日本語に訳されているその後の他の NLP 書を先に読んだ方々にとってこの本の中に「目新しいもの」がないのは、いわば当然と言えることです。ただ、『Magic of NLP』には、数箇所程度かなり画期的なアイデアが盛り込まれているのですが、オンライン書評を書かれた方々は残念ながらそれらのアイデアをピックアップできなかったようです。また、一部の方々からは、「私にとって初めて NLP の ABC の (左脳的な) 理解にたどり着けたのは、『Magic of NLP』が初めての経験でした」といった非常に肯定的なフィードバックをいただいていることも付言しておきたいと思います。」
なお、上述の私の翻訳書 2 冊についての情報は以下の Web サイトにあります。
http://www.creativity.co.uk/creativity/jp/info/translate/
2. 日本人の文化性について
最近大阪で NLP 紹介イブニング ワークショップを行ったときに、興味深いことが起こりました。
私は、常々「(夢ならず) 質問を食べる獏」と自己形容していて、ワークショップ、コース等でも、機会があるごとに、参加者からオープン形式の質問を求めた上で、瞬時にその質問に答えるという「インタラクティブな ワークショップ トレーナー」であることを自負していますが、そのように質問を求めても参加者の皆さんはあまり積極的に発言しないという状況を非常に頻繁に経験してきていました。
ですので、このイブニング セッションの際、参加者に自己紹介してもらう際、黒板に名前、職業、NLP の経験度に続いて 4 番目に「質問」という項目を書き、これら 4 つの項目について語ってもらうよう求めたところ、非常に興味深いことに、参加者の方々のほぼ全員が何らかの質問をされました。
欧米の NLP ワークショップ、コースでは、通常、一人か二人の参加者がトレーナーに対して数多くの質問をし続ける、そして他の参加者もそのことをあまり気にかけない、ということもよくあるのですが、日本では、文化的にそういうことはまず起こりえない反面、このように、黒板に「4. 質問」と書いて「誘導」することで参加者が質問することにさほど抵抗を覚えなくなる、という状況は、日本人の文化性を象徴しているように思えました。
日本人と欧米人の文化的な差異については、「異文化コミュニケーション」の観点から、興味深い点について、二、三点言及できます。
たとえば、先週、私が 18 年住んでいた英国ロンドン市で、地下鉄とバスの同時多発テロが発生しましたが、少なくとも英国では、犠牲者の名前は、まずその家族の同意を得ないかぎりマスコミで公表されることはありませんし、実際に公表されるケースも非常に少ないようです。
このような事件が起こると、日本の社会ではいかに「権威主義」が強調されていることがよくわかります。たとえば、このような場合 (今回の事件そのものではなく、数年前に起こったロンドン近郊での大列車事故の際に起こったことですが)、警視庁長官がマスコミの前に現れ、「全国の皆さん、今、私の部下である警視庁の職員と消防隊の方々が、自らのトラウマ的経験に必死に絶えながら救助活動をしてきていますが、このことについて、どうか皆さんから激励と感謝の念を彼らに送っていただけるようお願いします」と話していました。
私自身、たとえば、最近の尼崎列車事故の救助活動の際に、警察の幹部がこのような発言することはありえない、と思っています。すなわち、日本では、警察や消防は、その職員が救助活動の際にトラウマ的ストレスを受けているということを公にすることはなく、彼らはあたかも訓練を受けたスーパーマンであるかのような印象を与える傾向にあると思われますが、英国では、普通の人々も警察、消防の職員も同じレベルの一般人である、という点を強調する傾向にあるようです。
この点は、たとえば、ロンドン市長が毎日地下鉄で市庁舎に通勤していることにも如実に現れています。(東京の石原知事が地下鉄通勤することは、単に「アンビリーバブル」でしょう。) 今回の同時多発テロ後も、ロンドン市長はメディアの前で地下鉄通勤して、ロンドンが安全であることをアピールしていました。
(なお、この多発テロ事件に関して、CNN 等で、犠牲者の方々のコメントを聞くと、改めて、一般の英国人の方々の喋り方は、非常に流暢で論理的にしっかりとした話し方をしていることに気づかされます。特に、英国首相の国会での今後のテロ対策に関する表明演説等は、明快な喋り方、論理性とも、思わずうなってしまうほどの名演説と受け取れました。この状況は、日本とはかなり異なっています。)
ちなみに、日本の大臣の方々は、メディアの前では「取り巻き」の人々に囲まれている場合が多いですが、英国の大臣はほぼ常に一人で行動しています。
このような「権威主義」に関連した文化性は、英米の陪審員制度にも現れているのではないでしょうか?
ある有名な女性占い師が、最近テレビで、「最近のマイケル ジャクソンの裁判は陪審員の判断は正しかったと思っています。しかし、日本でも今後裁判員制度が始まりますが、裁判官は非常に倫理性を高めるために切磋琢磨している崇高な人々なので、一般人が人を裁くということには無理があります。アメリカは建国ニ百数十年ですが、日本は二千年以上の伝統があるので、その伝統を大事に尊重すべきで、このような裁判員制度は反故にすべきです」という意味のことを言っていました。
個人的には、この意見はダブル スタンダードだと思いますし、日本の権威主義擁護の意見だと思います。たとえば、英国では、裁判官も日本ほど神格化されておらず、「他の人を死刑にする権利は誰にもない」という思想から、死刑制度は長年に渡って廃止されています。
以上のことは、「異文化コミュニケーション」の観点から私が意見を述べるときはいつもそうであるように、西洋崇高主義の意味合いで書いているわけではなく、むしろ、本メルマガの第 7 号で記した、日本で最も卓越した文化人類学者の一人である西江雅之教授が発表した文化人類学の研究の結果が示しているような「文化的相対性」に日本人の方々に気づいてほしいという思いで書いています。
3. 「知っていること」と「実際にすること」の違い
たとえば、NLP や外国語を学ぶ際に、「知っていること」と「実際にすること」の間には雲泥の差があることを、私は含蓄的、明示的に本メルマガを通じて指摘してきていますが、このことを再実感させることが最近私自身に起こりました。
私が、英国の滞在の後帰国して国内で活動を始めたのは 3 年前ですが、私が日本にいない間に「国鉄」が「JR」に変わり、その過程で Suica やメトロカードといったキャッシュレス カードも普及してきていましたが、私自身は「慣れ」の問題もあり、ずっとこれらのカードは使わず、いつも切符販売機を使用してきていました。
ただ、諸々の理由から私自身「アナログ」的行動様式から「デジタル」的様式に移行するように余儀なくされたのですが、たとえば、Suica カードの購入のし方と使用のし方について 3 年間他の人々を充分観察してきていたつもりではいたのですが、いざカードを購入し、使用することを決定したときは、どのようにしていいかまったく戸惑い続けました。
カードを購入し終え、うまく使用できるようになった今となっては、こんな簡単なことになぜ戸惑ったのかという思いを (普通に問題なく同カードが使用できる読者の方々ともども) もちますが、ここに、自分が「知っている (と思っている) こと」と「実際にすること」の間には、橋渡しがまったく不可能なほどの絶対的なギャップがあることの想起として、あえて私の最近の体験を語らせていただくことにしました。
ちなみに、このギャップは、単なる外からの「モデリング」をどれだけ続けても埋まらなかったことを指摘することは、非常に興味深いです。(このギャップは、実際に自分自身で行動に移すまでは埋まりませんでした。)
作成 2023/10/31