以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 新・これが本物の NLP だ!」第 23 号 (2004.11.15 刊) からの抜粋引用です。
* * * * * * *
今月 11 月には、私の東京第一期 NLP マスター プラクティショナーも始まりましたので、この話題を含めて、いつもながらに徒然なるままに筆を運んでみます。
1. 東京第一期 NLP マスター プラクティショナーについて
11 月 6 日から同コースが始まりましたが、参加者の方々はやはりレベルとコミットメントの高い方々だと見受けられました。
第一モジュールでは、私のプラクティショナー コースで紹介演習された既習得テクニックの完全習得を目的にテクニックのレビューがなされました。特に、「メタモデル」の復習としてその新しい質問法が学ばれ、一連の「個人編集テクニック」の演習の中で NLP 最重要原則であるアンカーリングやサブモダリティ変更等の最重要技法が総合的に再習得されました。さらには、NLP ユニバーシティの新テクニックである「リソース スーパーチャージャー」も紹介されましたが、皆さんの反応はおおむね好評でした。
本マスター プラクティショナーには、国内の NLP の他団体でプラクティショナー コースを受けられた「編入生」もいらっしゃいましたが、団体によっては、私のプラクティショナー コースでのトレーニング内容の多くを他団体では学ばれていなかったようで、国内の NLP 団体のトレーニング内容のレベルの大きな差が露呈した形でした。私としては、欧米の NLP コースの基準を大きくクリアした形で私の資格コースを企画しているつもりでいますので、今後、私のコース内容の基準が他の団体のトレーニング内容にも反映されていくことを願っています。
2. グリンダー氏の初来日について
私の先号のメルマガでもお伝えしたように、来年 3 月に NLP 共同創始者のジョン グリンダー氏が、NLP 共同創始者として初来日し、私のプラクティショナーとマスター プラクティショナー コースの合同セッションでトレーニングをしていただき、3 月 21 日には、ビジネス向けワークショップ「NLPリーダーシップで才能を開花させよ」を開催していただきます。
このイベントに関して、なぜ NLP の創始以来 30 年間今までグリンダー氏が来日されていなかったのか、正直なところ個人的に不可思議でしたが、グリンダー氏から直接「私は、今までに約 40 名の日本人にセミナー形式で NLP を教えたが、NLP プラクティショナー、マスター プラクティショナー、トレーナーのレベルで資格認定した日本人は (北岡以外には) 他には誰もいない」という確認をいただいたので、やっとその理由の一部がわかりました。私は、カリフォルニア州サンタクルーズ (NLP 発祥の地) の GDA (グリンダー、ディロージャ & アソシエート) でグリンダー氏から 1988 年にプラクティショナーの資格を、1989 年にマスター プラクティショナーの資格を得ていますが、これまでに他にも同様の資格を同氏から受けた日本人がどこかにいるだろう、と思っていましたが、皆無であることが確認された次第です。この理由は、おそらく、グリンダー氏は 1989 年を最後に正式な長期の資格コースを開講してきていないからだと思われます。
ですので、グリンダー氏から正式なトレーニングを受けた唯一の日本人として、これまではほぼ「バンドラー式 NLP」一辺倒だった国内の NLP 俯瞰図を大きく塗り替えて、バランスのとれたホーリスティックな NLP を普及させるために、「グリンダー式 NLP」を広めていくべき責任を改めて感じています。私は、1995 年にリチャード バンドラー氏のトレーナーズ トレーニングを修了していて、2002 年には NLP ユニバーシティのロバート ディルツとジュディス ディロージャからトレーナーの資格を与えられているので、自分自身は高レベルの「バランスの取れた」 NLP ワークを紹介できるものと自負しています。
ちなみに、グリンダー氏は、NLP トレーナーに関して、資格はただの紙であって、重要なのはクオリティであるという立場を強く示されているようで、この辺も、数多くの人々を末広がり的にトレーニングして、さらにその資格授与団体を通じて (もしかしたらクオリティは二の次になるような形で) ピラミッド式に資格を出しているバンドラー氏とは非常に対照的な「少数精鋭主義的」な態度をもっていると思いました。(なお、資格とクオリティの問題についての私自身の見解は、NLP 業界では、クオリティの高いトレーナーから直接学び、資格を得ることは必要条件としては重要になりますが、もちろん、資格自体がその学習者のクオリティを保証するものではない、というごくごく常識的なものです。)
3. 私のトレーニング スタイル
上記の 2. の項目と関連して、バンドラー系のトレーナーの方々は右脳的な直感的なワークをして、演習を行う場合も、その内容に関して演習参加者から質問されても、「左脳的に考えずにまずやってみてください」と指示する傾向にあるようですが (バンドラー氏自身は、何が起こっているかを知った上で「何も考えずやればよい」という立場を取っていたとしても、表面に見えるテクニックだけを同氏から吸収して実践に移しているトレーナーの方々が多いので、これが、ひょっとしたら、「NLP は浅薄なテクニックの寄せ集めである」という一般的印象を与える原因となっているのではないでしょうか?)、私のワークに参加された方にはわかっておられると思いますが、私は文字通りどのような左脳的質問をされても、質問者の意図以上の左脳的な回答をいつどこでも提示できるトレーニング スタイルを確立しています。このスタイルは、間違いなく、私のグリンダー氏のトレーニング スタイルのモデリングから生まれたものです。
また、さらに言えば、このスタイルは、グレゴリー ベイツンにも基づいています。あるとき、ベイツンは、ガイド役の人と美しい薔薇の花を右脳的に経験するというセッションをしていましたが、ベイツンは、そのセッションの目的を外れて、左脳的な、哲学的な難解な説明を薔薇の美について延々と語り始めました。もちろん、ガイド役の人は、ベイツンに「すみません。この時間は、左脳を止めて、右脳的に現実をあるがまま体験する時間です」と注意したところ、ベイツンは逆に「黙れ! あなたには、この薔薇の花がこの美しさを達成するまでに、いったいどれだけの思考が必要であったかということが見えないですか?」と一喝しました。
すなわち、ベイツンは、自然界の進化と人間の思考の進化はまったく同一の規則に従っていて、両者の間には何の矛盾もないと見ていたのでした。私自身、左脳的な世界というのは、「常に右脳的な体験に落とし込めるかぎりにおいて」 (この条件は絶対必要条件です)、直感的な世界以上に美しいものであると、確信しています。私自身、哲学の歴史上、このようなホーリスティックな右脳と左脳の統合ができた上で、恐ろしいほどの左脳的作業を達成できた人物を、ベイツンを含めて少なくとも二人知っています。
もちろん、「常に右脳的な体験に落とし込めるかぎりにおいて」という表現は、第 14 号のメルマガにもあるディロージャのお気に入りのニューギニアの諺、「知識は、体が覚えるまでは、噂にすぎない」と密接に関連しています。
さらにまったく個人的なことを言うと、実は、私は、高校時代、大江健三郎の小説にはまり込みました。私の書く文章の文体、私の過去のフランス文学の研究、サハラ砂漠行き、ヨーロッパの長期滞在等の「ルーツ」は彼の 1973 年 (の『洪水はわが魂に及び』) 以前の各小説にある、と告白できるかと思います (このことは多くの読者の方々にとっては、大きな驚きだと思いますが)。私が特に耽読したのは、『個人的な体験』、『日常生活の冒険』、『空の怪物アグイー』、それに最高傑作のノーベル賞受賞対象作品の『万延元年のフットボール』等ですが、その中でも特に『日常生活の冒険』では、その冒頭は、主人公の友人の斉木犀吉が北アフリカの一都市で自殺する場面から始まりますが、私もアフリカの北海岸の一都市に 1 年以上滞在しました。この斉木犀吉 (モデルは大江の友人で義理の兄でもあった伊丹十三と言われてもいるようであることを、今ネット検索で初めて知りましたが) は、ありとあらゆる哲学的な命題について考え尽くし、その考えをノートに書き記して、人生上のどの哲学的質問にもすべて答えられる人物として描かれていますが、私は、無意識的には、学生時代に、斉木犀吉のような「哲学者」になろうと決意したきらいがあるようです。
ただ、繰り返しになると思いますが、私は、大学卒業時に「人生のいっさい何も変えない左脳の知識」を得るために象牙の塔に入るのを断固拒否し、「人生を変えてしまう体 (= 右脳) の知識」を求めてサハラ砂漠に行った人間なので、今のような、「ベイツン的なホーリスティックな左脳美」を達成できる (と自分では理解している) トレーニング スタイルを確立できたのだと思っています。
4. なぜ惜しみなく左脳的知識を公開するのか?
私はよく、「なぜメルマガを通じて、惜しみもなく、いろいろな情報を『無料で』提供するのですか?」という質問を受けます。
本年 7 月に本メルマガの発行人が変わったのを機に、バックナンバーの一部を非公開にしていますが、この理由は、書物で読む知識と実際にワークショップ等で学ぶ知識には雲泥の差があり、前者の知識は、実用的にはほぼ無価値である、ということにあります。
すなわち、語学の学習の場合と同じで、どれだけ左脳的に、独学で NLP の知識を蓄積しても、実際の効果、効用はほぼ皆無ということが指摘できます。この「耳年増」的傾向は、これだけ学校で英語を学んでも実際にはほとんど物になっていない日本人の方々について特に該当するのかもしれません。(この指摘は、日本人の方々に対する批判というよりは、むしろ、過去において私もそうであって (それゆえにこそあれだけの蟻地獄にいたのですが)、自分自身が非常に気を付けて「実践派」に変容する努力を続けてきた、という自戒の念を込めて言っています。)
すなわち、瞑想の先生から瞑想術の奥義を学ぶような形で、実際の演習を通じて「口頭伝授」式に NLP を学ばないかぎり、絶対に NLP の全体的技法は伝わらないので、私自身は、どのような NLP の秘密、「秘伝」を書き物で公表しても、真意は、私の元で実際に学ばないかぎり絶対に伝わらないと確信した上で、重要な情報を公表しています。私あるいは卓越した NLP のトレーナーの実際のワークを見ないで、これらの書き物を理解したと思っても、その理解は、NLP とはまったく無関係と断言できると言えます。この状況は、古代遺跡から古代の書が発見されて、多くの考古学者がああでもないこうでもないと想像を働かせて、その意味を解読しようとしている状況に似ています。これは、ディロージャの言う「噂」の情報の域を抜けることはできません。
5. 来年 1 月出版予定の新北岡翻訳書
私は、現在、今年の 4 月に出版された『Magic of NLP』の私の翻訳書に続き、2005 年 1 月に別の NLP 入門書の翻訳書の出版を予定しています。書名は、別途近い将来発表したいと思っていますが、この本は、私の知るところ、もっとも優れたビジネス向け NLP 入門書です。
私が 1988 年に NLP 共同創始者のジョン・グリンダー、NLP 共同開発者のジュディス・ディロージャ、ロバート・ディルツの元で本格的に NLP を学び始めたころ、私にとって「NLP バイブル」のような意味あいをもった NLP 入門書が 2 冊ありましたが、この 2 冊は、私の翻訳が出版された『Magic of NLP』とこの本でした。特に、この本では、「NLP ピア (NLP 実践者)」にとって NLP 実践時の決定的な「倫理的」指針となるべきコンセプトが紹介されていて、また、NLP のビジネスへの応用技術を実質的に初めて本格的に扱った本であるという意味において、「金字塔」的な NLP 書といっても過言ではありません。
私は、2002 年より NLP に関する国内活動を始めましたが、欧米では非常に評価の高い、1980 年代初めに出版されたこの最重要の 2 冊の NLP 入門書が 20 年以上の間邦訳されてきていなかった事実を知って極めて大きな驚きを覚えました。
このため、2 冊の「金字塔」の NLP 入門書に触れる「機会を奪われて」きていた NLP に関わる日本の方々にこの 2 冊の入門書を紹介することが、私の第一の使命であると考え、2004 年春にまず『Magic of NLP』の翻訳を出版させていただきました。
ちなみに、『Magic of NLP』の訳書のオンライン等での書評は「何も目新しいものはない」といった否定的なものになっているようですが、これは、その後のほとんどすべての欧米の NLP 書がこの入門書を元にして書かれているので、先に日本語に訳されているその後の他の NLP 書を先に読んだ方々にとってこの本の中に「目新しいもの」がないのは、いわば当然と言えることです。ただ、『Magic of NLP』には、数箇所程度かなり画期的なアイデアが盛り込まれているのですが、オンライン書評を書かれた方々は残念ながらそれらのアイデアをピックアップできなかったようです。また、一部の方々からは、「私にとって初めて NLP の ABC の (左脳的な) 理解にたどり着けたのは、『Magic of NLP』が初めての経験でした」といった非常に肯定的なフィードバックをいただいていることも付言しておきたいと思います。
そういうわけで、場合によっては、この本も、一部の NLP ピアから『Magic of NLP』の訳のような反応を受ける可能性もあるかとは思いますが、しかしながら、私の知るかぎり、同書にあるような NLP のビジネス応用技術は、他の NLP 書ではカバーしきれていないので、「目新しいものはない」といった感想は出ないと予想されます。
ちなみに、国内の NLP ピアの中では、海外の NLP 書の多くがすでに訳されていると思われている方もいるようですが、重要な NLP 古典書を含めて、日本にすでに訳されているのは NLP 関連書全体の 1 割か 2 割程度ではないでしょうか? また、すでに翻訳されている NLP 書の中に原書を反映していない書も一定数あることは、非常に嘆かわしい状況だと思います。
来年 3 月にはグリンダー氏のビジネス向けワークショップも開講されますので、私は、同氏のワークショップ開講と、ビジネス向け NLP 入門書のこの本の来年 1 月の出版が、国内のビジネス界にも NLP が本格的に導入される起爆剤になることを願っています。
6. モデリングについて
私は、NLP モデリングについてよく質問を受けるので、ここで、改めてこのトピックについて言及してみたいと思います。
まず、「NLP モデリング」として、二つの定義を提示したいと思います。これらは大文字の「Modeling」と小文字の「modeling」です (この差異は日本語では反映されないかもしれませんが)。
すなわち、大文字の Modeling は、グリンダーさんがいう「NLP モデリング」です。同氏の定義によるモデリングについては、本メルマガの第 11 号で説明していますので、以下に引用してみます。
[引用開始]
「私は、最近 NLP 共同創始者のジョン グリンダー氏と電子メールで交信してきていますが、その中で、いくつか興味深いことが判明しました。
まず、私は、このメルマガの第 5 号の冒頭で以下のように書きましたが、
「1995 年頃、私は英国ロンドン市で開催された NLP 共同創始者のジョン グリンダー氏の 1 日間レクチャーに参加しましたが、同氏はその冒頭で以下のようなことをおっしゃっていました (これは、同氏のレクチャー内容の逐語的転記ではありません)。
『今から約 20 年前に、私とリチャード バンドラーが、様々な帰納法的なワーク [著者注: これは、たとえば、ビデオを何度も見直して膨大な『生のデータ』から偉大なセラピストの行動/思考パターンという『公式』を見出したという意味です] の末 NLP というまったく新しい体系を作り出し、現在、幸いなことに NLP は、教育、セラピー、ビジネス、プレゼンテーション、スポーツ、芸術、司法など社会の数多くの分野にすでに浸透していて、今後ともほぼ全分野に深く行き渡っていくであろうことは、共同創始者の私としても嬉しいかぎりです。ただ、私の見るところ、20 年前に私とバンドラーが NLP を創始した後、どうも 『NLP の (他の分野への) 適用』というものだけが存在してきているようで、私は個人的には、20 年前の私とバンドラーが行ったような努力をして、新しいものをクリエートする NLP 実践者が新たに出てこないかぎり、NLP は今後徐々に衰退していって、20 年~30 年後にはやがては消滅してしまう可能性があると思っています。』」
この言質について、グリンダー氏から「その通りです」という確認をいただきました。
ただ、グリンダー氏は、「NLP の適用」と対立するものとして「NLP のエッセンスとしてのモデリング」を念頭に置かれているようで、それも同氏の「モデリング」の定義は「人間の行動、特に人間パフォーマンスの卓越性についての、最先端の、効率的なモデルを構築すること」であるようです。また、その方法論の定義は非常に狭義で、「NLP 共同創始者の 2 人が、『魔法の構造』や『ミルトン H エリクソンの催眠テクニックのパターン』等で、フリッツ パールズ、ヴァージニア サティア、エリクソン等の卓越したセラピストをモデリングしたときに採用した方法論」を指しています。すなわち、NLP 共同創始者は、自分をまず深いトランスに置き、その変性意識状態で、モデリング対象者が達成していると同じレベルのパフォーマンスを、本人が達成できる時間内に、無意識的に達成できるようにした後 (ところで、この方法は「DTI (ディープ トランス アイデンティフィケーション)」と呼ばれています)、意識的にそのパフォーマンスの効果とは無関係ないろいろな (行動モデリング上の) パラメータを落としていった後、モデリングの効果と関連している最小限の数のパラメータだけを残して、それらの最小限数のパラメータをパッケージ化することで、最終的に、他の人々がモデリング対象者と同じレベルのパフォーマンスをその人と同じ時間内に達成することを可能にさせるような、意識的に学習することができる一式の手順 (ツール) に明示化するという方法論を採用しました。」
[引用終了]
すなわち、グリンダー氏によれば、「モデリング」とは、DTI (ディープ トランス アイデンティフィケーション) の技法でモデラーが自分自身を深い変性意識状態に置き、たとえば、声帯模写者や俳優を模倣して身のこなし方や喋り方も本人になりきるコメディアンのように、モデリング対象者になりきることで、その人のパフォーマンスを完全に再製することを意味します。これは狭義のモデリングとして「Modeling」と表記できるかと思います。
他方、さらに広義のモデリングも存在し、これは「modeling」と表記できると思います。これは、必ずしも、DTI (ディープ トランス アイデンティフィケーション) の状態でモデリング対象者になりきることを意味するのではなく、ある人の考え方または行動のし方の「一部」をパターン化または公式化して、他の人が該当のパターンを再製できるようにすること、を意味するかと思います。おそらく、グリンダー氏は、この modeling を NLP モデリングの中には含めないものと思われます。
この Modeling の定義に基づけば、グリンダー氏の「私の見るところ、20 年前に私とバンドラーが NLP を創始した後、どうも 『NLP の (他の分野への) 適用』というものだけが存在してきているようで、私は個人的には、20 年前の私とバンドラーが行ったような努力 [すなわち、DTI を使った Modeling 作業] をして、新しいものをクリエートする NLP 実践者が新たに出てこないかぎり、NLP は今後徐々に衰退していって、20 年~30 年後にはやがては消滅してしまう可能性があると思っています」という危惧は、理解できます。
すなわち、読者の方々もお分かりかと思いますが、Modeling には、自分が今まで築いてきていた自分自身のすべての行動/思考パターンをいったん中座して、つまり、自分の世界地図をすべて「棚上げ」して、他の人間の世界地図をそのまますべて (たとえどれだけ一時的であろうと) 「無条件」に受け入れることが含蓄されています (さもなければ、Modeling の定義自体がなりたちません)。言い換えれば、現在自分がもっている世界地図を基準にして、モデル対象者の世界地図のこの部分は受け入れるが、この部分は受け入れない、といった「選別的モデリング」は Modeling として見なすことはできません (なぜならば、自分の世界地図の制限または限界を超えることこそが、Modeling の主要目的だからです)。
このような完全モデリング、すなわち Modeling は、誤解を恐れずに言うと、ある意味では、宗教的な教祖に自己サレンダー (自己放棄) することと等価なのですが、私自身、個人的には、これほどのサレンダーとコミットメントをもたれている方に NLP 業界内外でほとんど出会ったことはありませんし、また、グリンダー氏の言う Modeling ができる NLP ピアが今までほとんど出てきていないからこそ、「『NLP の (他の分野への) 適用』というものだけが存在してきているよう」な状況が生まれている、と結論づけることができると思います。
すなわち、NLP 業界で言われているモデリングとは、ほぼ例外なく modeling であり、さらに、modeling する場合でも、通常本来であれば、公式化した他の人間の行動/思考パターンを自分の中で再構成することで、新たな創造的な考え方/行動のし方を作り出していくべきところなのに、たとえば、他のプログラマーが苦労して作った JAVA のプログラミングの必要な部分だけを、そのプログラマーの Web ページから自分のページにコピー/ペーストして、寄せ集めのプログラミングでできたサイトを作りあげる場合のように、他の NLP ピアが考案したアイデアとテクニックを表面的に集めて「接木」するだけの NLP ピアが、国内外を問わず、非常に数多くいるようです。
なお、私の理解では、この Modeling ができる人 (= Modeler) になるには、4 つほどの条件があります。
1. 自分自身に対して完全な自信をもっていること (これは、自分の世界地図を一時的に完全放棄しても、後でまた戻ってこれるほどの自信です)。
2. 1. の項目と関連して、自分の世界地図とモデリング対象者の世界地図を含められるほどの柔軟性をもっていること。
3. 自分の「主観的経験」 (ちなみに、この主観的体験の研究こそが NLP であるわけですが) だけに頼って自己判断ができるほどの徹底した懐疑主義者であること。
4. そこまでしてでもモデリングしようとするコミットメントをもっていること。
私自身は、グリンダー、バンドラーのような偉大な Modeler ではありませんが、僭越な言い方をすると、少なくとも「倫理性」をもちながら、常に何か創造的なものを人類に貢献したいと願っている modeler である、と自己形容させていただきたいと思っています。
作成 2023/10/20