以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 新・これが本物の NLP だ!」第 19 号 (2004.8.5 刊) からの抜粋引用です。
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7 月中旬から 8 月初めの週末にかけて英国 NLP 学院認定大阪第一期および東京第二期プラクティショナー コースのモジュール 3 が開講されましたが、再び興味深いことが起こりましたので、今回は、その報告をしたいと思います。
1. NLP の全体像はどのようにしたら見えるのか?
この問題は、本メルマガではこれまでにも何回か考察されてきていますが、大阪第一期および東京第二期プラクティショナー コースの参加者間でも話題に上っているようでした。
興味深いことは、本メルマガの第 12 号で言及した、「臨界質量点」に両方のコース参加者の方々の大半が達しつつあるような印象もあり、その方々は、たとえおぼろげながらであれ、NLP とは個々の単体の演習テクニックの単なる寄せ集めではなくて、どの単体の演習テクニックを行ったとしても、その中には他の多くのテクニックまたはモデルの少なくとも構成要素が含蓄的に前提されていることが判明し、そのことで、NLP とは支離滅裂な不完全な体系ではなくて、まったく有機的に統合したホーリスティックな体系であることが分かり始めたのではないでしょうか? このような有機的な体系性 (すなわち、全体像) を (演習テクニック等を通じて) コース参加者に「体感知識」として示せるのが他ならぬ著者である、と自負しています。
(ちなみに、上の段落の内容について 2 点興味深いことが付記できます。まず第一に、この、一つのテクニックに他の複数のテクニックの要素が少なくとも含蓄的に統合または前提されているという事実は、本モジュールで習得したテクニックである「サブモダリティ」の「ありとあらゆる内的世界の体験には、サブモダリティの構成要素がホログラフィー的に影響している、すなわち、どの『一部』の経験をとっても経験『全体』がホログラフィーのように内包されている」という事実と関連していると言えます。
第二に、コースで、「あるテクニックを行っている際に、そのテクニックのやり方についてもっと具体的な詳細な指示がほしい」という感想がある参加者から出たときに、別の参加者が「私たちは、これまでラポール、メタモデル、アンカーリング等 NLP の基本モデルをすでに学習してきているので、そのような演習の機会が与えられたときにこそ、受動的にノウハウの具体的指示を待つのではなく、そのような基本的テクニックを自分なりに試行錯誤的に駆使して、自己実験して自分でノウハウを試し、開発すべきではないでしょうか?」という意味のことを言われました (この内容は、逐語的転記ではありません)。私自身、この方の意見に同意しますし、また、このことが私自身 NLP を自分に自己適用した方法論であったと、ここで改めて確認することができます。)
以上に関連して、今回、コースで私は、「NLP のテクニック、モデルにはいろいろありますが、『アンカーリング』、『リフレーミング』、『TOTE』(そして、おそらく『サブモダリティ』もここに追加していいかと思います)、の 3 つ (あるいは 4 つ) のモデルは、単体としても非常に強力なツールで、演習テクニックとしても完全習得すべきものですが、これらのモデルは、さらに、どの他の NLP テクニックを行っている際でも必ず OS (基盤) として含蓄、内包されているという意味で、たくさんの数珠 (つまり、個々の NLP テクニック/モデル) を相互に結び付けている紐のような役割をしています」と発言させていただきました。
この私の発言を吟味考察していただければ、「NLP の全体像はどのようにしたら見えるのか?」の問いに自分で答えることもより容易になるのではないでしょうか?
2. モデル/テクニック/演習テクニック
今回、コースのある参加者から、私の上記の用語の定義を求められました。私自身、この 3 つの用語は相互交換が可能な形で使ってきていましたが、この文面を借りて、改めて定義を試みてみます。
まず、NLP では、「理論」、「コンセプト」といった語はほぼまったく使われません。これは、理論、コンセプトに基づいた「仮説」というものを極力排除する NLP の徹底した実用主義的基本的態度と関連があるように思えます。
ですので、他の学問分野で「理論」、「コンセプト」が使われるような文脈では、NLP では「モデル」という語を使うと言ってほぼ差し支えないと思います。
また、私の中では「モデル」と「テクニック」の間にはあまり意味論的な差異はありませんが、モデルはより概念的である一方で、テクニックは、モデルを実際に現実に適用する際に生まれる実用的効果により強調を置いている、と言ってよろしいかと思います。
さらに、このテクニックを応用して、NLP の左脳的知識をディロージャの言う「噂」ではなく、右脳的体感知識に落とし込むための実際的、実用的な作業の過程を「演習テクニック」と定義することが可能かと思います。
いずれにしましても、本メルマガでも、私は、これら 3 つの語をほぼ同じ意味合いで相互交換可能な形で使ってきていると思います。
3. 新 NLP テクニックの考案
私が過去に受けた欧米の NLP コースでは、「新 NLP テクニックの考案」セッションといったものもありましたが、私のプラクティショナー コース参加者の方々は、私が「北岡式 NLP テクニック」といったものを紹介しないことに気づいておられると思います。
これは、1) 私にとって NLP という体系は、あまりにも統合的に完成されていて、その効果は絶大なものがあるので、その体系を作り出したわけでもない私自身がのこのこと新テクニックを開発することにおこがましさを感じてしまう、2) たとえ新テクニックを考案すべきではないことではないにしても、そのような新テクニックは、少なくとも NLP の一定数の基本的テクニックをオリジナルのまま完全習得した後で、その自己適用として「慎重に」行うべきであって、NLP の短時間セッション内で学んだ断片的知識に基づいて、自分勝手なアイデアを安易にテクニック化するべきではけっしてない、といった理由に基づいています。(ただ、既存の NLP テクニックの「適用のし方」については、私自身独自な方法論を展開してきていることも、また事実です。)
また、個人的には、歴史的に NLP の体系を、もっと広い観点から古今東西の心理学/哲学/認識論の歴史の中で位置付けたいというライフ ワーク的なプロジェクトをもっているので、すでに完成している NLP の体系をさらに開発進展させるよりも、そのような歴史的な NLP の位置付けワークの中でこそ自分自身のオリジナリティ性を発揮したいので、私自身、新 NLP テクニックの考案に関しては積極的な立場を取っていません。さらに、既存の NLP テクニックを自己適用することで、自分の目的を完全達成してきているので、新テクニックの必要性を特にあまり感じないことも事実です。
とはいっても、一応 NLP 基本テクニックを完全マスターした方々 (すなわち、私のプラクティショナー コースを受けた方々) を対象にして、今後のマスター プラクティショナー コースでは、そのような「新 NLP テクニックの考案」セッション時間もぜひ設けたいと思っています。
4. 各 NLP テクニック演習を 3 人で行う理由
私のプラクティショナー コースでは、例外的なケースを除いて、各 NLP テクニック演習は、ほぼ常に、「エクスプローラ (演習者)」、「ガイド役」、「オブザーバ」の 3 人で交替式で行われますが、ここで、各役割について意味合いを概要説明したいと思います。
まず、どのテクニック演習であれ、主役はあくまでもエクスプローラです。これは、NLP 的な左脳的知識をジュディス ディロージャの言う単なる又聞きの「噂」ではなく、右脳的体感知識に落とし込むための実際的、実用的な過程として各テクニック演習があり、その過程を主観的に経るのがエクスプローラです。エクスプローラは、場合によっては、外界を完全遮断して、自分自身の内部のトランス (すなわち、NLP の「4Ti」) に完全に入り込むこともありますが、これは、テクニック演習の性質上、そうすることが逆に求められています。
次に、ガイド役は、そのように左脳的知識を右脳的体感知識に落とし込むことに「没頭」しているエクスプローラが、その没頭のために該当の演習の手順から外れないように (消極的に) 導く「案内人」です。このとき、ガイド役は、ヒューマニスティック心理学者のカール ロジャーズ式に「クライアント中心」に考えて、あくまでもエクスプローラに対しては「黒子」に徹する必要が出てきます。
最後に、オブザーバは、単に演習の全過程を客観的に見る人ですが (必要に応じて、他の二人にアドバイスすることは許されています)、このオブザーバは、NLP の基本的なモデルである「メタ ポジション」を確立するための訓練をすることになります。
なお、私のプラクティショナー コースの専任トレーナーであるリタ ベロさんによれば、NLP ユニバーシティで彼女がトレーニングを受けたときは、参加人数が多かったこともあり、たとえ 3 人で演習を行っていても、時間の都合で最後の人がその役割を充全に経験できないままに演習が終了したことが頻繁にあった、ということです (この場合、特に自主的に「課外授業」としてその同じグループの参加者が再度集まって演習を再開終了しないかぎり、特別な NLP ユニバーシティ側のフォローアップもなかったようです)。
私のコースでは、たとえ演習時間を延長してでも、グループの三人の全過程を終えることができるようにして、演習の過程が中途半端に終わることのないようにしています。
5. 「リフレーミング」について
「リフレーミング」は、意味を変えるために使われる言語テクニックで、上述のように、ほぼすべての NLP テクニックに関して、前提的な基盤としての機能を果たしています。
NLP の原理の一つに、ある出来事には固有の意味はなく、私たちがそれに与える意味しか存在しないというものがあります。この「外から与えられる」意味は、私たちが出来事をどう描写するか、その描写のし方に依存しています。経験と出来事を描写するための言語の使い方で意味を変えることができれば、対人コミュニケーションにおいて強力なツールを持つことになります。NLP モデルのリフレーミングは、内容リフレーミングと文脈リフレーミングの二つに分かれます。
内容リフレーミングでは、出来事や経験の意味が他のことを意味するように変更されます。内容リフレーミング例としては、エイビス (Avis) 社がレンタル カー市場の 2 番目の地位を「2 番目だともっと一生懸命になる」という広告スローガンに使ったことが挙げられます。これにより、2 番目であることの意味が、「ベストでない」から「常にベターなものを求め、自己満足しない地位にある」に変わりました。内容リフレーミングは、セールスの場で一般的に使われますが、スムーズに短時間で起こるので、ほとんど気づかれません。買い手が「赤」のコンバーティブルを購入したいとき、セールスマンは「赤い車はもう売り切れました。それは最も人気のある色で、誰もが赤の車を乗り回していますが、今年出たばかりの青の新車があります。これは、限定版の色です。この色だと特別な車を運転することになります。購入前に、お見せしましょう」と言うとします。これは、内容リフレーミングによる意味変更のもう一つの例です。
文脈リフレーミングでは、経験が、さらに肯定的な意味をもつ他の文脈に移されます。数年前にフォードのコマーシャルがありました。小型車のドライバーがニューヨーク シティーを運転していて、他の大型車のドライバーがそのフォード車のドライバーを見下ろします。この視点からは、フォード車は安物で、おもちゃのように見え、まったく魅力的ではありません。その後、他の車は 1 台づつ道路を離れ、ガソリン ステーションに入って大きなガソリン タンクに給油しますが、フォード車のドライバーは走りつづけます。その後、ドライバーは、他の大型車は通り過ごしている 2 台の大型車の間の小さなスペースに車を入れ、停車し、車から出て、歩道で車を振り返って微笑を浮かべます。もちろん、コマーシャルの冒頭では、印象的な大型車と比べて路上のドライバーと小型車は冗談のように見えました。しかし、筋が進むにつれて、コンパクトな小型車の利点が明らかになりました。これは、古典的な文脈リフレーミングです。
今回のプラクティショナー コースでは、私は以下のリフレーミング例を発表しました。
「これは、ミルトン H エリクソンの臨床例です。あるとき、自宅の絨毯に掃除機をかけ続ける必要のある潔癖症の女性がクライアントとしてエリクソンを訪れました。エリクソンは、その独特な催眠誘導の口調で彼女をトランスに誘導しながら『今あなたは快適に感じていて、リラックスして、自宅の絨毯の前にいます。あなたは、リラックス感とともに、その絨毯を見て、家族の者の足跡がいっさい付いていないことを確認します。(ここでエリクソンは、クライアントの唇の端に笑みが漏れたことを確認した後、口調をがらっと変えます) このことは、あなたの周りにいっさい誰もいないということを意味します!』これ以降、この女性の潔癖症は解消したということです。」
私は、このリフレーミングが内容リフレーミングか文脈リフレーミングのどちらか、コース参加者に尋ねましたが、回答としては、「絨毯に足跡がないことの文脈を変えているので文脈リフレーミングです」という答が多かったようです。
私自身が見るところ、内容リフレーミングも文脈リフレーミングもある一定の状況の意味合いを変えるという点では一致していて、その意味を単体で変えた場合は内容リフレーミングとなり、他の文脈をもちこんだ上でその意味を変えた場合は文脈リフレーミングになるように思われます。その意味では、内容リフレーミングの特殊な形態として文脈リフレーミングを位置付けることも可能のように思われます。この点に関して、読者のご意見をお聞きしたいと思います。
さらに、リフレーミングについて重要なこととして、私はコースで、「人間コミュニケーションは、本質的には、2 人のコミュニケータがまったく同じである単一の現実についてのそれぞれの『リフレーム』した解釈バージョンをお互いに受け入れさせようと強制または説得しあっていることで成り立っている」という点と、「この世の中で、文字通り『リフレーミング』できないものはいっさい存在しない、このため、どのような窮屈な世界地図 (= 蟻地獄) をもっていたとしても、そこから脱出することは可能である」という点を指摘させていただきました。
6. 「メタ ポジション」について
「メタ ポジション」とは、NLP では、自分の内的経験に直接的に関与せず、その経験から達観して、まるで第三者の他人が見るように自分自身の経験を見つめる「観察者のポジション」のことです。
上の項目でリフレーミングに言及されましたが、私の見るところ、「メタ ポジション」と「リフレーミング」には密接な相互関係があるようです。
すなわち、家族療法の権威であったヴァージニア サティールは、クライアントが「私は惨めです」と言ったときに、「自分が惨めであることについてどう思いますか?」と質問することで、(たとえば、クライアントに「ええっと、確かに自分は今現在は非常に惨めですが、少し時間が経てば再びハッピーに感じることも可能かもしれません」等と言わせることによって) クライアントの内的な精神状態から距離を置かせる手法を使いましたが、まさしくこの例は、ある人が自分自身の身を「メタ ポジション」に置くことで、自分の気分が即時的に「リフレーム」されることを例示しています。
さらに、ロバート ディルツ系のテクニック演習では、メタ ポジションを見るメタ ポジション等を置くことで、「メタ メタ メタ メタ … ポジション」というふうに無制限の数のメタ ポジションを想定する場合があります。
ジョン グリンダーは、その最新の著 (「Whispering in the Wind」) 等で、このように複数のメタ ポジションを置くことは無意味で、単に一つだけの観察者のポジションを置くだけで目的は達成される、という意味のことを指摘しています。
この件に関する私の見解は、このディルツとグリンダーの立場は両方とも妥当であるが、瞑想的な観点から言って、複数のメタ ポジションを置く方が、(どのような精神状態に陥っても、常に継続的にその精神状態を超えたメタ ポジションに身を置き移し続けることができる、という意味で) 「この世の中で、文字通り『リフレーミング』できないものはいっさい存在しない」という事実がより強く実感できるのではないか、というものです。
ただ、必ず留意しておくべきことは、人間意識の最高レベルのポジションはあくまでも観察者としての「メタ ポジション (あるいは、メタ メタ メタ メタ … ポジション)」であって、たとえば、「自信保持者」といった下位のポジションをそのメタ ポジションを見るポジションとして置くことはできない、という点です。
7. 「コア ト ランスフォーメーション」について
私は、本メルマガの第 15 号で以下のように書きました。
「今国内で頻繁に語られているコニリー アンドレアスの「コア トランスフォーメーション」もディルツの「神経論理レベルの整合」とほぼ同じ内容と結論付けていいと思います。(ちなみにこの「コア トランスフォーメーション」の原書の出版年はすでに 10 年も前です。また、私自身は、これらの 2 つ のテクニックのどちらが先に生まれたかの正確な情報はもっていませんが、私の推測では、アンドレアスがディルツの 15 年以上前のモデルである「心身論理レベル」を「応用」し、コア トランスフォーメーションというテクニックを「開発」し、この「NLP テクニックの一部」を独自に商標登録し、その後一方でディルツがより汎用な「神経論理レベルの整合」テクニックを開発した、というのが事実に近いのではないでしょうか?) 」
その後、コニリー アンドレアスの「コア トランスフォーメーション」を読みましたが、この 2 つのテクニックは別個のものであることを確認しましたので、ここで訂正しておきます。私のこの誤解は、約 10 年前に英国ロンドンの「ノース ロンドン NLP プラクティス グループ」(以前はペニー トンプキンズとジェームズ ローリーが主催。私自身、このグループでワークショップを開講したことがあります) で「コア トランスフォーメーション」のセッションを紹介したトレーナーがディルツの「神経論理レベルの整合」とほぼ同一のテクニックを紹介していたので、私自身、「コア トランスフォーメーション」と「神経論理レベルの整合」は同じテクニックと考えるようになっていました。
とは言うものの、2 つのテクニックは形式は別物ですが、原理は似ていると言っても差し支えないかと思います。
作成 2023/10/16