以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 新・これが本物の NLP だ!」第 133 号 (2010.2.5 刊) からの抜粋引用です。
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今回は、「北岡新 NLP FAQ、その二十四」のトピックがカバーされています。
1) 北岡新 NLP FAQ、その二十四
Q57 (133): 北岡先生が最近使い始めた用語であり、本年 1 月末にシリーズ I が開講されたワークショップのタイトルである「Meta Mind Work」について、さらに説明していただきたいのですが。
A57 (133): 「メタ マインド」という用語は、日本語では馴染みがないものかもしれませんが、左脳的 (デジタル) ワークと右脳的 (アナログ) ワークとの止揚統合を図るワークとしての位置づけが定着すれば、国内市場でも、非常に明快な用語として今後定着していってくれうだろうという強い予感がしています。
もちろん、NLP は「メタ マインド ワーク」の一つとして定義することができます。
これに関連して、新たに、以下のサイトに「Meta Mind Work 宣言!」ページをアップロードしました。
http://www.kitaokataiten.com/metamind/
本メルマガの読者の方々には、このページにある「Meta Mind Work 対応表」を始めとして興味深い部分もあると思いましたので、先号のメルマガの内容と一部重複していますが、以下にこのページ内容全体を引用させていただきます。
Meta Mind Work 宣言!
北岡泰典は、これまで、「マインド ワーク」というワークショップを開講してきていましたが、最近、この名称を「Meta Mind Work (メタ マインド ワーク)」に変更しました。
これは、主に、以下の理由から、「マインド ワーク」の旧名称は大きな誤解を引き起こすものだったからです。
- 北岡の真のワークは、「左脳的」もしくは「デジタル」なワークではなく、左脳/右脳、デジタル/アナログ、過去意識 (4Ti)/現在意識 (4Te)、部外者意識/当事者意識といった二元論をすべて超えた、メタ (観照者) に抜け、そのレベルで下位レベルの二元論を超越、止揚しようとする「メタ (超越) マインド ワーク」である。
- 同様に、北岡のワークは、いかなる意味においても、「マインド vs ノーマインド」の構図にはまり込んだ「マインド ワーク」ではなく、マインド (自我) とノーマインド (前自我) の両方を超えた「超自我」に進むことを可能にする、革新的な方法論であるが、その意味合いは「マインド ワーク」という名称では表せない。北岡のワークは、あくまでも「マインド vs ノーマインド」の二元論も超えた「メタ マインド ワーク」である。
- 北岡のワークは、NLP ワークだけに限定されたものではなく、二十数年にわたる印度哲学系 (特に、瞑想の方法論を確立したパタンジャリとアドヴァイタ ヴェーダンタ創始者のシャンカラチャリヤ) の精神世界の研究と実践、および瞑想、催眠、セラピー、化学的に誘発された意識を含む、ありとあらゆる変性意識の実践的研究ワークにも基づいているので、北岡ワークの全体像を定義するためには、包括的な名称が必要だった。NLP は、定義上、「Meta Mind Work」の一つと見なすことが可能である。
上記の 2 の項目については、以下の図式が導き出されます。
すなわち、印度哲学等では、意識と無意識を超えた「超意識」が語られていますし、ユングやトランスパーソナル心理学者のケン ウィルンバーは、人間は、本来的には、1) 自我と外界 (上の図で言う「自己と非自己」) が未分化の「前自我」 → 2) 自我と外界が分離している「自我」 → 3) 分離した自我と外界が再統合される「超自我」の成長段階を経る必要があり、すでに自我意識を形成している「大人」である我々は、 「ホーリスティックな全体性」を達成する目的で、分離した自我と外界の再統合の方向に進む必要がある、と示唆しています。
巷では、自我と外界 (すなわち、自己と非自己) の再統合の方法論としては最高のように見える NLP を、「前自我への退化」、現実逃避、すなわち、自我と外界の分離をそのままにして、ただただ昔子宮の中で体験した、失われた「無意識的至福」を再体験させるために使おうとしている人々が多くいるように思われますが、このことは、北岡には、無責任極まりないことであり、(真の至福は超自我的な再統合の後にしか達成できないので、「永遠に回復できない失われた楽園」を求めることを助長しているという意味で) 極めて危険であるようにも見えます。
同様に、瞑想家の多くが「ノー マインド」を求める必要性を説いているのは正当化されるかと思いますが、だからと言って「マインド」と名の付くものを「左脳的」等ということでことごとく排斥しようとする彼らの立場は、あまりにも無邪気すぎるように思えてなりません。
人間の真に進むべき道は、「マインド (≒左脳≒自我)」と「ノーマインド (≒右脳≒外界)」のホーリスティックな再統合もしくは弁証法的止揚、すなわち、「メタ マインド ワーク」であるべきだと、北岡は主張します。
NLP では、「Meta Mind」を経験できる (「メタ ポジション = 観察者」を含む) 多くの個人編集テクニックが用意されていますし、さらに最近の北岡ワーク、特に、「Meta Mind Work」ワークショップでは、自我と外界 (すなわち、自己と非自己) の再統合を可能にさせる OLD コード NLP 的な意識的ワークと NEW コード NLP (シャーマニスティック) 的な無意識ワークが重点的に紹介されています。
また、ミルトン H エリクソンは「クライアントがセラピストに来る唯一の理由は『その意識が無意識とラポールが取れていない』からです」と言ったとされていますが、北岡の「Meta Mind Work」では、まさにそのラポールの取り方 (これこそが、マインドとノー マインドの再統合のし方です) が教えられます。
上記に基づき、「Meta Mind Work I ~ III」ワークショップ シリーズの各フェーズでは、主に以下のトピックのワークが扱われます。
「Meta Mind Work I」 NEW コード NLP/無意識ワーク
「Meta Mind Work II」 エリクソン催眠 (ミルトン モデル) 習得ワーク
「Meta Mind Work III」 Meta Mind/シャーマニスティック NLP ワーク
ちなみに、「Meta Mind」は、 たとえば、以下の四つの比喩すべてで機能しています。
- 北岡は、十数年前に煙草を完全禁煙しましたが、このきっかけになったのは、英国の深夜番組での「喫煙派 vs 禁煙派」の視聴者参加型グループ討論の番組でした。
この討論の内容は、本当に「低級」で、北岡は、反吐が出るほどの極端な嫌悪感に襲われました。それまでにも何度か禁煙と喫煙を繰り返していましたが、このときばかりは、あまりの嫌悪感に、あまりにもくだらないこれら両方の立場を「金輪際超越」してみたいと心底から思いました。
そのとき、ふと、現象的に、仮にもし煙草を吸い続けた場合、決定的に、否定できない形で自分は喫煙派に分類されざるをえないが、仮に煙草を吸うという行為を現象的にしない場合、確かに禁煙派と分類される可能性もあるが、同時に、喫煙派と禁煙派の両方を超えた、NLP でいう「メタ」の立場と分類される可能性もある、少なくとも、煙草を吸うかぎりその「超越の立場」に立つことは論理的に絶対不可能だ、という思いに至りました。
この思いが、北岡を完全禁煙させたという次第でした。 - 北岡は、そのワーク中に、よく、「仮に私がここにいて、たとえば、フランス語を (現象的に) しゃべっていない場合、これは、二つの可能性を示唆しています。一番目は、『フランス語がしゃべることが「できない」からしゃべっていない』状況で、二番目は、『別の場所ではしゃべることが「できる」が、たまたまその場所でしゃべってない』状況です。この場合、前者には自由がない一方で、後者には自由があることは明らかです。この差が認識できる人がし垂直的学習者で、そうでない人は水平的学習者です」と言っています。
- 拙著『5文型とNLPで英語はどんどん上達する』で、以下の箇所があります。
「英語を『完全習得』したと言えるのは、自分が理解できない文に出会ったときに、その文が理解できない理由は、そもそもその文自体が構文的に間違っているので、それ以上読解しようと試みる必要がないからなのか、それとも、その文は構文的に正しくて、見慣れない単語を辞書を調べたり、スペルミスを正したりさえすればその文がちゃんと理解できるようになるからなのかを的確に自分自身で判断できる能力を備えたときだ。」 - 古代インドの純粋哲学者たちは、覚醒体、夢見体、熟睡体の三つの精神状態を定義した上で、たとえば、夜熟睡し、いわば昏睡状態に陥った後目覚めたとき、「私は今朝、熟睡し、何の意識も記憶もありませんでした」と言うとき、熟睡しているまさにその間に、何の意識ももたず、昏睡状態に陥っている自分自身をずっと「観察」し続けている「純粋観照者 (witness)」 がいなければ、自分自身が熟睡していたと言うことは論理的に不可能であるという、極めて説得力のある議論に基づいて、「チュリヤ (= 第四の意識)」を提唱しました。
「Meta Mind Work」という名称を通じて、市場に広がっていると思われる「北岡のワークは、左脳的である、頭でっかちである」といったまったくの事実誤認が払拭され、かつ、おそらく今までの心理学、哲学的な場で存在しなかったような、2,500 年間の人類の心身二元論の問題を解決した (特に、バートランド ラッセル式およびグレゴリー ベイツン式の) 現代認識論に基づいた「北岡ワーク」が、正当な評価を受け始めるためのきっかけになったら、と願っているところです。
この「Meta Mind Work」は、北岡がこれまで示唆してきていた、「他の団体の資格保持者で、ブラッシュアップが必要な方々」向けのブラッシュアップ ワークショップとしての機能も果たすものとします。
ちなみに、この名称変更を機に、北岡は独自の資格授与も検討中で、この資格は「Meta Mind Manager」と呼びたいと考えています。
この資格は、以下のような特徴をもつことになるものとします。
1) 「Meta Mind Manager」の資格は、「Meta Mind Work I ~ III」 の他にも、プリゼン力を養う「プリゼン ワークショップ」を含めた包括的パッケージを修了して、かつ十分な能力を証明する、等、一定の条件を満たした人に与えられることになります (受講が必須となる包括的パッケージのワークの詳細は、別途改めて北岡泰典公式サイト等で正式に告知発表します)。
2) この資格は NLP 資格コースのような「基本技能」的な資格とは異なり、さらに無意識を活用した、「メタの観点から NLP を使って、自分自身、自由自在にボックスから出たり入ったりでき、かつクライアントにもそうすることを可能にさせるファシリテータ」であることを認定する資格となる予定です。
3) 位置づけとしては、「Meta Mind Manger」は NLP のプラクティショナーおよびマスター プラクティショナー資格の上と見なされるものとしていきたいと思っています。
4) 将来的に、北岡の会社、(株) オフィス北岡としても、自社ブランドの「Meta Mind Manager」の資格保持者をビジネス的にバックアップしていきたい、と考えています。
Q56 (132): 改めて「モデリング」について語ってください。
A56 (132): ジョン グリンダー氏は、1995 年頃ロンドン市内のレクチャーで以下の発言をされています。
「今から約 20 年前に、私とリチャード バンドラーが、様々な帰納法的なモデリングのワークの末 NLP というまったく新しい体系を作り出し、現在、幸いなことに NLP は、教育、セラピー、ビジネス、プレゼンテーション、スポーツ、芸術、司法など社会の数多くの分野にすでに浸透していて、今後ともほぼ全分野に深く行き渡っていくであろうことは、共同創始者の私としても嬉しいかぎりです。ただ、私の見るところ、20 年前に私とバンドラーが NLP を創始した後、どうも 『NLP の (他の分野への) 適用』というものだけが存在してきているようで、私は個人的には、20 年前の私とバンドラーが行ったような努力をして、新しいものをクリエートする NLP 実践者が新たに出てこないかぎり、NLP は今後徐々に衰退していって、20 年~30 年後にはやがては消滅してしまう可能性があると思っています。」
グリンダー氏は、NLP の「真髄」である「NLP モデリング」と、そのモデリングが明示化した公式の応用である「NLP 適用」とを明確に分けていて、真の NLP はモデリングにあると示唆しています。
私は、本メルマガの第 124 号で以下のように書かせていただいています。
「ところで、この『NLP 前派』 (1975 年~ 1981 年) と『NLP 後派』 (二人の共同創始者が袂を分かった 1981 年以降、現在まで) を分ける一里塚は、1981 年に発行された、唯一四天王全員の共著書である『NLP 第一巻』です。[北岡注: 『NLP 第一巻』の出版年を記憶違いしていました。正しくは、1980 年でした。いずれにしても、共同創始者が袂を分かった年は 1981 年だったと、私は理解しています。]」
私には、グリンダー氏の「NLP モデリング」は、この「NLP 前派」 (1975 年~ 1981 年) のワークを意味していて、「NLP 適用」は、『NLP 後派』 (1981 年以降、現在まで) のワークを意味しているように思えてなりません。
グリンダー氏は、最近 (私にとっては 1981 年以降のことですが)、NLP の適応しか存在せず、真の NLP モデリングが存在していないとおっしゃっていますが、もしかしたら、そのような真のモデリング ワークができる人々がでてきたら、その人々は、NLP を超えたものを創始するはずだ、という逆説がここにあるように、私には思えます。
また、グリンダー氏は、NLP 創始当初の同氏とバンドラー氏のモデリングは、左脳的分析をいっさい排した無意識的モデリングだったと指摘していましたが、最近、 NLP 創始当初のモデリングは、同氏が提唱する NEW コード NLP によってアクセス可能の状態である「ノウ ナッシング ステート」モデリングだった、と形容し始めています。
この意味から言っても、NEW コード NLP は、適用しか達成できていない「後期 NLP」において、もう一度「前期 NLP」の無意識的、催眠的傾向の強いワークを復活させようとする試みである、と言ってもいいのかもしれません。
特に、グリンダー氏のこのモデリング志向性は、1980 年代の同氏とジュディス ディロージャ女史の「個人的天才になるための必要条件」ワークショップ シリーズとそのワークショップの一つの内容の転記本である同名書に反映されています。
北岡自身、NLP の「初心」に戻って、3 月 22 日から開始される北岡自身の「個人的天才になるための必要条件」ワークショップ シリーズを通じて、各業界の第一人者の方々のモデリング ワークを行っていきたいと考えています。
ちなみに、北岡は、最近、ある団体のプレゼン研修会で、市場調査の目的でプチ プレゼンをしました。このとき、北岡が「プレゼンの神様」であると聞いていて、2003 年頃その方の会社内で社内向け NLP 研修を提供させていただいたことのある、五反田をベースにした「プレゼンテーション第一人者」の方の名前を出して、「このプレゼンターの方のモデリングをしてみたいのですが」と提案したのですが、その場にいた出席者の誰一人もこの方の名前を知っていませんでした。
逆に、その場にいた人々からは、アップル社社長のスティーブ ジョブス等のモデリングをしてほしい、と言われました。日本語でなくてもいいのですね、と聞いたら、OK ということだったので、北岡自身は、日本の市場を心配して、「国内のプレゼンテーションの第一人者でなくてはならい」と考えていたのですが、現在は、「プレゼンターのモデリング」は、 スティーブ ジョブス、アンソニー ロビンス、あるいは、米大統領、といったところでもいいのでは、と考えるようになっています。
以上のことで判明したことは、おそらく日本には「プレゼンテーションの第一人者」といった人は一人も存在しないのであろうという事実です。仮に存在するとしても、それは、人を引き付けるカリスマ性をもったプレゼンターではなく、せいぜい、接遇の観点から好印象を与えることができるプレゼンターであろう、と考えられます。
思うに、今で言う民主党の小沢幹事長にしろ、昔で言う大平首相にしろ、逆に「活舌の悪い」プレゼンターが高評価を受ける傾向が日本にはあるように見受けられます。
この事実と、私が本メルマガの第 2 号で指摘した以下の欧米事情と関連性があると思います。
「私は昨年まで英国に 15 年以上滞在していましたが、[その英国等で] テレビのニュースなどで、町を歩いている普通の人々にインタビューすると、まず例外なくどのような人も皆、初めから終わりまで滞りなく、間投詞も少なく、論理的に自己表現できる能力をもっていることには驚愕させられました。 日本のテレビでの街頭インタビューを聞くと、自分の独自の意見を述べられる人々は少ないし、『ええっと』といった間投詞が頻繁に使われ、さらに最近では『「ちょっと』とか『~といった感じで』といったまったく意味のない、表現を曖昧化する機能しかない言葉を多用することが大きな流行になっているようです。」