以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 新・これが本物の NLP だ!」第 128 号 (2010.1.2 刊) からの抜粋引用です。

* * * * * * *

今回は、「北岡新 NLP FAQ、その十九」のトピックがカバーされています。


1) 北岡新 NLP FAQ、その十九

Q47 (128): なぜ北岡先生の NLP はこれほどまで小難しく、かつここまで「操作的」なのですか?

A47 (128): これは、非常にいい質問ですね。一言で言えば、それは「人間のマインドはそれほど小難しく、操作的だから」です。

仮にもし、人間のマインドが単純極まるものであれば、実は私が「糞」 (この表現は英語の「bullshit」の訳語と理解してください) だと思っている (!) NLP などいっさい必要ないと思います。

この私の立場は、ジョン グリンダー氏の「私が言う SRCF (「状態管理、ラポール、カリブレーション、柔軟性」。北岡は、最後に「首尾一貫性」を加えた SRCF/C を提唱しています) のコミュニケーション技能を身に付けられていれば、そもそも NLP など不必要です。そうでないからこそ NLP があるのです」というスタンスとパラレルですね。

私は、最近の私のワークの中で、頻繁に、以下のように述べています。

「NLP そのものは、誰でもわかるように『糞』のようなものです。できれば学ばないに越したことはないですね。そもそも NLP が必要な理由は、人間のマインドが複雑極まりない、ということだけです。英語の表現に『Leaving no stones unturned (すべての石の裏をチェックする、すなわち、あらゆる手段を尽くす)』という表現がありますが、ありとあらゆる『狡猾』なマインドの『回路』の動きに先回りして、その動きを待ち構えていなければ、まだ『未処理』の、ごく微細なマインドの動き (すなわち、意識的にコントロールしきれていない無意識的な微細なアンカーリングの『残滓』) に逐一状態を『飛ばされて』、即自分のセンターリングもしくはグランディングもしくはバランスを失ってしまうことでしょう。

そのように、自分自身を保身するためにだけ、私は NLP を学んできています。これは、合気道の創始者の植芝盛平が自分から攻撃することはなしに、常に自分にかかってきた敵のエネルギーを何十倍にもして返すことだけに徹した『自己防衛術』とパラレルです。私は、この意味で、日本の武道で唯一自己防衛的と思われる合気道を高く評価していますし、欧米で二十数年前から『メンタル合気道』と言われてきている NLP を自分の生業にしてきています。

(ただし、10 年くらい前に、私が生まれ、植芝の生誕地でもある紀伊田辺のある体育館で、合気道の武道大会があり、実際に見に行きましたが、植芝の弟子の弟子の弟子? が素手で『真剣白刃取り』の技を見せていましたが、間違えて親指を深く切り、血をボトボトと流しながら『痛、痛、痛』と叫んでいるの見て、どの世界も、確かに創始者はすごいが、弟子のレベルは笑止千万的に低いことを再確認した次第でした (笑)。)」

ちなみに、私の師匠は、口酸っぱく、「サイキックまたはオカルト パワーを自分から求めてはならない。求めるものは、(その後、日本に現れた麻原彰晃のように) 自己破滅する」と説いていたので、私自身は、使いようによってはサイキックパワーの権化にもなりえる NLP は自己保身以外にはいっさい使ってきていません。つまるところ、そのような「超能力」をどれだけ身に備えたところで、人は裸一貫で死んでいかねばならず、また、それらは真の「自己実現」とはいっさい無関係なことは、古今東西の真摯な導師が異口同音に語っているところです。

また、私が、最近、エリクソン催眠、その他の、私が非常に操作的と見なしているテクニックを教え始めていることも、同様の理由によっています。

これらの極めて操作系のテクニックを教える際、ワーク参加者には一つだけ条件を強制しています。

その条件は、「自分と相手の人の相互のアウトカム (目的) があるとして、相手のアウトカムを無視して自分のアウトカムを押し付けるのは、『魔法の心理学』の著者のジェニー ラボードが言うように『巧みな操作』であるが、自分のアウトカムと相手のアウトカムを『刷り合わせ』して、『高次のアウトカム』に自分と相手を誘導するのは『誠実な影響』です。皆さんも、操作的なテクニックを使うときは、このことを念頭に置いておいてください。私にとっては、『誠実な影響』がただ一つ『倫理』としてもっておくべき基準であり、これをもっているかぎり、何をやってもいいと思います」というものです。

なお、上記のように、これだけ狡猾で、操作的なマインドを扱っている NLP を教える人間が、非常に単純な、右脳オンリーの NLP を教えることは、私は、個人的には、(自分では知らず知らずのうちに) 非常に大きな「犯罪」を犯していると考えています。

なぜならば、そのような方向性は、FAQ46 で言及した、山田孝男氏の「ニューエイジ系の多くは現実逃避派である」という指摘にもつながるものだと思われるからです。

ユングやケン ウィルンバーが示唆しているように、人間は、本来的には、1) 自我と外界が未分化の「前自我」 → 2) 自我と外界が分離している「自我」 → 3) 分離した自我と外界が再統合される「超自我」の成長段階を経る必要があり、すでに自我意識を形成している「大人」である我々は、 「ホーリスティックな全体性」を達成する目的で、分離した自我と外界の再統合の方向に行くしか選択肢はないように思われます。

にもかかわらず、自我と外界の再統合の方法論としては最高のように見える NLP を、「前自我への退化」、現実逃避、すなわち、自我と外界の分離をそのままにして、ただただ昔子宮の中で体験した、失われた「無意識的至福」を再体験させようとする方向性は、私には、無責任極まりないことであり、(真の至福は超自我的な再統合の後にしか達成できないので、「永遠に回復できない失われた楽園」を求めることを助長しているという意味で) 極めて危険であるようにも思えます。

同様に、私の師匠は「ノーマインド」を提唱しましたが、だからと言って「マインド」と名の付くものを「左脳的」等ということでことごとく排斥しようとする数多くの瞑想家の立場は、あまりにも無邪気すぎるように思えてなりません。

真の瞑想家が進むべき道は、「マインド (≒左脳≒自我)」と「ノーマインド (≒右脳≒外界)」のホーリスティックな再統合もしくは弁証法的止揚であるべきだと、私は主張します。

その方向に使われる NLP こそが「本物の NLP」で、それ以外の NLP は「似非 NLP」と呼ぶべきでしょう。


Q48 (128): 1 月 11 日に開催される「NLP と瞑想」ワークショップについて、コメントしていただけますか?

A48 (128): このワークショップは、 私の「昔取った杵柄」的なワークで、10 月 31 日に初開催されたものですが、参加者からの反響がよく、この第1回目を受講できなかった方々からのご要望もあり、1 月 11 日に第2回目を「特別キャンペーン価格」で追加開講することになりました。

このワークが私の「昔取った杵柄的なワーク」であるという意味は、私の若い頃 (二十代、三十代) の本来の目的は、60 年代のヒッピー文化の「落とし子」として (事実、私の内的成長は、高校時代の私のヒーローであった (『万延元年のフットボール』までの) 大江健三郎と (三枚目のソロ アルバムの『アフター ザ ゴールド ラッシュ』までの) ニール ヤングと出会い、コロンビア大学の紛争をテーマにした『いちご白書』やピンク フロイドがサントラを担当し、地中海のイビザ島がヒッピー化するきっかけとなった『モア』という映画にのめりこんだ 1972 年当時、16 歳で止まっていると言っても過言ではないくらいです)、ヒッピーたちが実験した、カウンターカルチャー的な変性意識 (主に瞑想と化学的に誘発された変性意識状態) の実践的研究を究めることで、その一環として、(仏語通訳として) サハラ砂漠に 3 年間滞在し、その後イビザ島を含むヨーロッパ中でヒッピーのように放浪生活し、その後、アメリカ西海岸のオレゴン州のインド人導師のコミューンに赴き、そこで 1983 年にこの導師に弟子入りしました。

その後、通算 12 ヶ月間のコミューン生活を含め、27 年間継続的に瞑想を休みなく続けてきているつもりです。特に、1985 年の夏にコミューンのラジニーシマンディアという 300m x 500m くらいの広さの吹き抜けの道場 (この道場は、Google の航空写真地図によれば、いまだに現存しているようです) で私の師匠が考案した「クンダリーニ瞑想」というダンシング瞑想を行っていたとき、後半部で、自分がまったく宇宙遊泳しているような状態となり、究極の「恍惚感」を感じ始めました。間違いなく、クンダリーリ エネルギーが第七のクラウン チャクラまであがってしまったようでした。

この恍惚感が単なる私の「幻想」ではなかったことは、その状態で、道場の脇の靴脱ぎ場で、当時同じ心理療法のコースに参加していた米人女性三人とハギングしたとき、四人とも、いわゆる「昇天」してしまったことで確かめられましたし、また翌日、日常の生活の修行として、山でホウレン草を摘んでいたとき、30メーター向こうからドイツ人女性が私のエネルギーを感じ取り、近寄ってきたので、この人とハギングしたときも、二人とも昇天したことで確かめることができました。(なお、この状態は、約 3 週間程度続きましたが、その後反復されることはありませんでした。)

このように、私は、当時自分自身が、現在私が「背中に羽が生えたピヨピヨ系の精神世界の人々」 (すなわち、山田孝男氏の言う「ニューエイジ系の現実逃避派」) として「断罪」しているカテゴリの一人であったことは否定しませんね。

ただ、その後、世界中で私の師匠の弟子に何百人、何千人単位で会いましたが、私の見るところ、そのほぼすべての人々は、単にセックスとドラッグに溺れてしまっている、私の言う「対象物との自己同一化の解除」ができていない人々だったので、いつしか、「独自路線」を歩み始めることになりました。

その後、おそらく私の師匠がモデリングしたと思われる (ラーマクリシュナの高弟の) ヴィーヴェックアーナンダを研究しましたが、彼が以下のことを言っていることを知りました。

「精神は、その一つ一つが潜在的には神だ。
目的は、外部と内部の自然をコントロールすることにより、この神性を顕在化することにある。
このことを、日常の仕事、崇拝、サイキック コントロール、哲学のうちの一つ、二つ以上、またはこれらすべてを通じて行うがよい。そして自由になるのだ。
これが宗教のすべてだ。教義、教条、儀式、経典、寺院、形態等は、二次的な枝葉末節以外の何ものでもない。」

(注意: この引用で、「日常の仕事」、「崇拝」、「サイキック コントロール」、「哲学」はそれぞれ、カルマ ヨガ、バクティ ヨガ、ラージャ ヨガ、ジュナーナ ヨガの 4 つのヨガの手段を表しています。)

ということで、いわゆる悟りの道は、私の師匠の弟子の多くが「唯一の道」として選択しているように見える「崇拝、献身、愛 (=バクティ ヨガ)」の道だけではなく、場合によっては、「サイキック コントロール、メンタル コントロール (=ラージャ ヨガ)」や「哲学、知識 (=ジュナーナ ヨガ)」によっても達成可能であることを知るようになりましした。

その後の私のおそらく何万時間にもおよぶ研究の結果、「サイキック コントロール、メンタル コントロール」の権化は 2,500 年前に「ヨガ ストラ」を著したパタンジャリであり (ありとあらゆる形態の瞑想は、「ヨガ ストラ」にある方法論を超えていないことは、最近の私のメルマガで言及されています)、「哲学、知識」の権化は 8 世紀に「アドヴァイタ (非二元論的) ヴェーダンタ」を創始したシャンカラチャリヤであることを「発見」しました。特に、シャンカラチャリヤの本は、サンスクリット語から英訳された本をすべて読みましたが、彼の左脳的分析には畏怖の念と究極の審美性を感じてしまいます。

その後、いわゆる自己啓発の方法論として NLP を知るようになりましたが、その「二人の父」が「現代のパタンジャリ (=ラージャ ヨギ)」と形容していいミルトン H エリクソンと「現代のシャンカラチャリヤ (=ジュナーナ ヨギ)」と形容していいグレゴリー ベイツンである以上、この方法論が「現代のラージャ ヨガもしくはジュナーナ ヨガ」の方法論として使えないわけはない、というのが論理的帰結であるはずです。

特に、グレゴリー ベイツンについて言えば、あるとき、変性意識の研究の一環として「LSD セッション」を行ったのですが、セッションのガイド役の人と美しい薔薇の花を「右脳的」に経験するということが要求されていたのですが、ベイツンは、そのセッションの目的を外れて、「左脳的」な、哲学的な難解な説明を薔薇の美について延々と語り始めました。もちろん、ガイド役の人は、ベイツンに「すみません。この時間は、左脳を止めて、右脳的に現実をあるがまま体験する時間です」と注意したところ、ベイツンは逆に「黙れ! あなたには、この薔薇の花がこの美しさを達成するまでに、いったいどれだけ多くの何百万という思考が必要であったかということが見えないですか?」と一喝しました。

すなわち、ベイツンにとっては、マインドの進化と自然の進化はまったく等価であり、そこに (人為的な) 線引きをしてしまうのは、究極的な左脳の分析の美しさを理解できない、右脳オンリー志向の「現実逃避派」であることの証明であると思われます。

以上のことは、もちろん、FAQ47 の末尾にある以下の結論とも深く関連しています。

「私の師匠は『ノーマインド』を提唱しましたが、だからと言って『マインド』と名の付くものを『左脳的』等ということでことごとく排斥しようとする多くの瞑想家の立場は、あまりにも無邪気すぎるように思えてなりません。

真の瞑想家が進むべき道は、『マインド (≒左脳≒自我)』と『ノーマインド (≒右脳≒外界)』のホーリスティックな再統合もしくは弁証法的止揚であるべきだと、私は主張します。」

以上の観点をもとに、私の「NLP と瞑想」ワークショップが 1 月 11 日に再開催されます。なお、本ワークショップには以下のような特徴があります。

1) 1 時間に及ぶような瞑想セッションはありませんが、「瞑想のし方」が伝授されます。
2) 「瞑想、催眠、NLP」の「三位一体説」の観点から、瞑想誘導と催眠誘導は、実質的には何ら変わるところはないことが例証されます。
3) 2,500 年前のパタンジャリの「ヨガ ストラ」にある瞑想テクニックに NLP が取って代わりうる (= 1 時間瞑想した後の境地と頭の中で行う数秒間の NLP テクニックの後の境地が同じである) ことが例証されます。
4) NLP は、一つのことに意識を集中することによって、気持ちを落ちつかせ、心を静かな状態に導く「サマタ瞑想」 というよりもむしろ、自己内観法、内省法である「ヴィパサナ瞑想」のための方法論であることが実証されます。

以上のような私独自のワークに興味のある方々に本ワークショップの参加を強くお勧めいたします。現在のところ、若干数の空席が残っています。

作成 2024/2/2