以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 新・これが本物の NLP だ!」第 123 号 (2009.11.23 刊) からの抜粋引用です。

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今回は、「プラクティショナー コース報告」、「北岡新 NLP FAQ、その十三」、のトピックがカバーされています。


1) プラクティショナー コース報告

先週末にNLP インテグラル アソシエーション主催の第三期プラクティショナー コースの第一モジュールが無事終了しました。

このことについて報告したいと思いました。

まず、このコース モジュールは両国の国際ファッション センター (KFC) で開催されましたが、先週末の土日の間だけで、この会場で開かれていた NLP 関連のワークの数に驚きました。

土曜日には Voice 社の一日 NLP ワークショップが開催されていましたし、日曜日には NLP ラーニングのマスター プラクティショナー コースが開催されていました。土、日にかけては、私の NLP インテグラル アソシエーション主催プラクティショナー コース、マイケル ボルダック (この方は、アンソニー ロビンスのお弟子さんと聞いています) のコーチ認定コース、NLP ラーニング代表の山崎啓支さんの別のワークが開催されていました。

ということで、2 日間で 5 つの異なる NLP ワークが KFC で開催されていたことになり、これは、国内で NLP がすでに大ブレークしつつある兆しなのかとも思いました。

コースの参加者のレベルは、私の基準ではかなり高く、質疑応答の質も高質で、私も非常に高度な質問の答え方もできたかと思います。

コース中での質疑応答の一部をここで紹介したいと思いました。

まず、ある参加者が「ある新しい行動様式を身につけるときに、その行動様式を『抑圧』して、身につけない場合もあるのではないでしょうか?」という意味合いの質問をされたので、私は以下のような回答をさせていただきました。

「今のご質問ですが、振り返ってみると、私は、2002 年から国内で NLP を教えてきていますが、今まで『抑圧』という言葉を使った覚えはいっさいなく、また、生徒さんから『抑圧』に関連した質問等は受けたこともないですね。

思うに、『抑圧』という言葉は、(今は『死語』ともいうべき『精神分析』を始めた) 『フロイトおじさん』が勝手に作り出した言葉で、NLP にはこの言葉とそれが意味する機能はいっさい存在しませんね。

NLP では、『意識化』されているか『無意識』のままとどまっているかの違いしかなく、『抑圧』という概念自体が意味をなしません。

ある新しい行動様式を採用することを『抑圧』 (と思われること) しているかどうかは、今までの『思考の癖』に抗うことができるかどうかに関する『自然さ』と『不自然さ』、あるいは、その『抵抗』の度合いと言い換えることができるのではないですか?」

確かに NLP に「抑圧」という概念がいっさいないということは、NLP によって、「抑圧」という概念に決定的に依存しているフロイト派の精神分析家の存在理由を根絶にさせることになるとも思えます。

さらに、コース モジュール後の懇親会の場で、私が「NLP は、脳内でドーパミンとエンドルフィンとセラトニンを自由自在に分泌できるようになることを可能にさせる、外的化学物質に『いっさい依存』しない『脳内麻薬』を作り出す、ドラッグ フリーの方法論ですよ」と言ったときに、非常に納得された方も多かったので、冗談に「では、私はこれから『脳内麻薬師』という名称を名乗りたいと思います」と言わせていただきました。

確かに、私は、実際、今後「脳内麻薬師 北岡泰典」とだけ書いた名刺を作るかもしれませんね。幸いに、現時点で Google で「北岡泰典」で検索すると 2 万 2 千件ヒットするようなので、場合によってはこれだけを記載した名刺でこと足りるのかもしれない、と思い始めています (笑)。

同じく、懇親会の場で、一部の方には、「先生のプラクティショナー コースでは参加者の学習の加速速度は足し算的ですが、マスター プラクティショナー コースでは掛け算的になります」と言っていただけました。

さらに、第一モジュールの最後の演習として、NLP ユニバーシティが作った「NLP 諸前提テクニック」 (NLP の諸前提を頭で理解するのではなく、実際に体感覚的に落とし込める、私が極めて強力なテクニックの一つと見ているテクニック) のデモ演習を、ある参加者に対して行わせていただきました。本日、この女性の方からワーク後感想がメールで送られてきましたので、以下に引用させていただきます。

「先生のNLPは本当に素晴らしいです。
解放されるということを、言葉だけではなく実際に経験できています。
ありがとうございます。

今まで辛い中で、何をやってもダメだと思ってきましたが、
先生に出逢えて本当に嬉しいです。
今までのさまざまな学び(寄り道)も、
先生に出逢い、そしてより深く先生のおっしゃることを理解できるような
準備だったのだと、今は思うことができます。

ワークをしていただいたことで、
NLPの前提があんなに美しいものだったと初めて知りました。」

ちなみに、本コースには、この女性の方を含めて、他団体からの編入者の方も何人かいらっしゃいますが、他団体では NLP を使った「コンテント押し付けセラピー」ワーク (私にとってしたら、これは、似非 NLP であっても、本物の NLP ではありません) を教えていることが多いらしく、私の「ほぼ完全なコンテント フリーのワーク」に接しられて、カルチャーショック以上の驚きを覚えられているようです。


2) 北岡新 NLP FAQ、その十三

Q37 (123): 北岡先生は、よく、ユングまたはトランスパーソナル心理学者のケン ウィルバー等の考え方を引き合いに出して、「前自我 -> 自我 -> 超自我」の図式を紹介されますが、これについてさらに詳しく説明してください。

A37 (123): そうですね、この三段階の成長には、非常に深い意味合いがありますよね。

まず、前自我の段階は、「自分」と「他者 (外界)」が未分化の状態で、まったく機械的です。これは、ある意味、「無意識的至福」の状態です。

そして、悲しいことですが、人間は子供の段階から成長するにつれて、 「自分」と「他者 (外界)」を分離し始めて、「ここまでは自分」、「それ以外は他者」というふうに「自我」に目覚め始めます。我々意識的な人間は、ほぼすべて、この段階にいると言っても過言ではないと思います。 これは、(全体と同一化できない疎外された自我がもつ) 「意識的悲哀」の状態と言ってもいいかもしれません。

そして、次の段階は、その分離した「自分」と「他者 (外界)」をもう一度融合させる段階です。これは、自我と他者が再統合することで生まれる「意識的至福」の状態と言ってもいいのかもしれません。

ここで問題になるのは、「自然または宇宙との一体化」を唱えている精神世界の人々がいますが、私の見るところ、そのほとんどは、「自然または宇宙との『無意識的』融合」という「前自我」への退行を促しているように見えてなりません。これは、進化ではなく、(極論的には昏睡状態への) 退化です。

真の意味での自我と他者との融合は、自分と他者との分離という悲哀を経験した「後」、もう一度その分離を意識的に「再」統合することです。

このことを達成するためには、喜びと悲哀の両方が見え、かつ、その両方を超えた状態が「至福」であることを認識できる「メタ (= 超越した)」の視点を養う NLP のような方法論が必須となります。

言い換えれば、「メタ」の視点がない自我と他者との融合は単なる前自我への退行であり、「メタ」の視点がある自我と他者との融合は超自我への進化である、と言うことができます。

以上のことと関連して、今回の第三期プラクティショナー コースの第一モジュールのある参加者の方から、講義の休憩中に、以下の意味合いのコメントをいただきました、

「先生は、『悟りの道』は、つまるところ NLP でいう『メタ』にいくことで、かつ、このメタにい続けることが NLP テクニックによって可能だ、と明示化していますよね。このような方法を模索して、日夜試行錯誤をしても見つけられていなくて、喉から手が出るほどほしがっている精神世界の修行者が数多くいます。悟りとそれに至る方法が、先生の教える NLP を通じて明示化されていることは、実に驚愕すべきことです。」

同じような感想は、私の過去の精神世界系のワーク参加者からいただいたこともあり、また、これこそ、私が 2000 年に英国で出版した CD-ROM 本『サイバーブック: 悟りのための統合的認識論』のメインテーマです。



Q38 (123)
: 日本語に「客観視」という言葉ありますが、このことと「メタ (観察者)」の視点の違いを説明していただけますか?

A38 (123): この質問には、「メタとは、コンテント フリーの客観視です」と答えられるかと思います。

すなわち、「メタ」とは、五感を超えた純粋な観察者としての視点で、現象界 (コンテンツ) にまったく縛られていないレベルの立場です。

ちなみに、私が徹底的に研究したインドのヴェーダンタ哲学等によれば、「本当の自分」というものは「不変」のものです。

ということは、ディルツの心身論理レベルの「環境、行動、能力、信念、アイデンティティ」の五つのレベルの状態はすべて何らかの変化をし続けているので、そのどれも真の自分であるとは言えません。

真の自分とはそれらの五つの意識のレベルを超えている、現象界を超えた何かです。この何かは、五感を超えているので、実は誕生もしなければ、死にもしません!

その何かが、コンテンツを超えた観察者ということになります。

ちなみに、この辺の「生死」、「老若」、「苦楽」、「増減」を超えることについては、『般若心経』や老子の『道経』等で、普遍的に示唆されているように思います。

作成 2024/1/28