以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 新・これが本物の NLP だ!」第 122 号 (2009.11.18 刊) からの抜粋引用です。
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今回は、「プラクティショナー コース直前情報」、「北岡新 NLP FAQ、その十二」のトピックがカバーされています。
1) プラクティショナー コース直前情報
今週末に開始されるNLP インテグラル アソシエーションの第三期プラクティショナー コースについて、二点ばかりの直前情報があります。
I) 先号のメルマガで、「特に、他団体の資格保持者の方々の『技能のブラッシュアップ』としての編入参加 をお待ちしています。過去の私自身のコースの修了生の方々の再受講も歓迎いたします。(編入者の特別編入割引参加費と私のコースの修了生の再受講費に関しましては、nlp@jnlpa.jp のメールアドレスまでメールでお問い合わせください。) 」と書かせていただきましたが、「過去の私自身のコースの修了生」に関しましては、今回のプラクティショナー コースの「全体を再受講」していただくことを条件に (私個人のブランドである) NLP インテグラル アソシエーションの認定証を発行することも可能です。この特別処置にご興味のある場合は、nlp@jnlpa.jp のメールアドレスまでメールでお問い合わせください。
II) 近い将来の私のワークショップの一つに参加する興味があった方で、グループ内でどうしてもシェアリングできない、等と理由から結局参加を見送った方がいらっしゃいました。その方に以下のメールを送らせていただきました。
「参加の是非のご決定は、ご自身のものですから、最終的にご自身でしていただけたら幸甚です。
一点、考えてきていることがありますので、『シェアリング』させていただきたいと思いました。
どこまでメルマガ等で『仮想現実』的に市場に伝わっているかわかりませんが、私は、生後 4 ヶ月で脳性麻痺になり、その後遺症で左半身不随となり、5 歳と 10 歳のときに施設体験をして、そこで極めて重度のトラウマ体験をもち、その『影』から逃れるために、欧米、サハラ砂漠まで『逃げ』、83 年秋に米国西海岸でインド人導師に弟子入りし、七ヶ月間の心理療法を受け、88 年に英国で催眠の学校を卒業し、その後知り合った NLP で自分自身を完全に救った過去をもっています。
思うに、私には Before と After があり、今の私しか知らない人には信じられないでょうが、以前の私には『「片輪」な人間が、人前で、「人の視線をもろともせずに」しゃーしゃーとプレゼンするということなどは、夢のまた夢で、何度生まれ変わってもありえない』としか思えていなかったのに、NLP を通じて、この辺の『アンフィニシュド ビジネス (未解決の問題)』も、文字通りすべて完全克服できてきています。
このことについては、過去あるとき、私が大阪でコース説明会をしたとき、参加者に障害者施設に勤めるスタッフの方がいて、私の人前での『しゃーしゃー』性を見て、(おそらく目の玉が飛び出るほど) 驚愕されて、その後、そのことで納得されて、私のコースに参加していただいたということがありました。
確かに、私は、88 年に英国でグリンダー氏と初めて会い、そのときの同氏の『個人的天才になるため』の方向性に触発・影響されて、それまでの『精神的に病んでいる人を正常人に戻す』という方向性から『正常人を個人的天才に変容する』方向性に舵を取り直させていただいた経緯がありますが、そのグリンダー氏自身も、二、三年前の国内の『NLP コーチング』コースで参加者からの質問に答えながら『精神病患者に対しても NLP は、いわゆる正常人に対してとまったく同じように、何の違いもなく施すことができます。唯一の条件は、その際に、該当の患者さんと充分なラポールを事前に形成できていることだけです』とおっしゃっていたように、私の『底辺のワーク』は、88 年以前も、以降も同じだと考えています。
一点、逆説的なことは、そのような NLP は、おそらく、個人セッションを除いては、グループ ワークの環境で学ぶしか方法がない点ですね。そのグループ参加が、さまざまな理由から難しいというのはとても残念なことですが、私の過去がそうであったように (特に、私の師匠に対して『完全自己放棄 (トータル サレンダー)』したときのように)、いつの日か、大江健三郎風に『見る前に跳ぶ』ことのできる日が訪れることをお祈りしています。
以上よろしくお願いします。」
ということで、私のワークの根底には「精神的に病んでいる人を正常人に戻す」「セラピー」的要素も色濃く反映されていることを、直前情報としてお伝えしておきたいと思いました。
2) 北岡新 NLP FAQ、その十ニ
Q35 (122): NLP で「アンカーの上書き」テクニックはありますが、「アンカーを消去」することは可能ですか?
A35 (122): この質問は、頻繁に受ける質問で、今回の「大阪マインドワーク」ワークショップでも尋ねられ、私は、以下のように回答させていただきました。(ちなみに、「アンカー」は、「アンカーリング」というプロセスを引き起こす (= トリガーする) 外的または内的刺激のことです。)
「私は、今まで、アンカーの上書きテクニックがあることは確認してきていますが、経験的に、アンカーを (コンピュータからファイルを消去するように) 完全に消去するテクニックに『ポジティブに』出会ったことはないので、実際にはあるのかもしれませんが、今の時点の私の世界地図では、存在しない、としかいえませんね。」
この私の発言の後、ある方 (実は、大阪マインドワークの主催者の方です) から、「先生は、さきほど、アンカーの消去法はないとおっしゃいましたが、最近のグリンダー氏のNEWコードNLPが作りだす『ノウナッシングステート』は、もしかしたらアンカーを消去する作業を達成していませんか?」という質問を受けました。
これに対して、私は、「躊躇なく」、「ほぼ瞬時に」、「それはありえますね」と答えさせていただきました。
思うに、ノウナッシングステートに入れば、いわば、コンピュータのハードディスクの「初期化」に近い状態になるので、ある人が「後天的」に獲得されてきたアンカー群が初期化されて、消去状態になるのではないか、というこの方の指摘はすばらしい直感だと思いました。
もちろん、すべてのアンカーが初期化されてしまうと、人間は、動くこともしゃべることもできなくなってしまうので、アンカー群にはいくつかの論理レベルがあり、後天的に獲得されたもの (「サブ サブ……サブ サブ レベル」のアンカー群) ほど初期化されやすく、DNA レベルを含んだ、先天的なもの (「メタ メタ……メタ メタ レベル」のアンカー群) ほど初期化は難しくなると考えた方が適切かと思われますが、この「ノウナッシング ステートによる脳内 (あえて言えば、「無意識」) の初期化」の観点は、今後大いなる発展性を秘めているようで、極めて興味深いと思います。
(ちなみに、該当のワークショップでは、DNA レベルの人類のアンカーは (上書きにしろ消去にしろ) 解除することができるか、といった意味の質問も尋ねられましたが、この点に関する私の立場は、「極めて難しいかもしれないが、必ずしも絶対的に不可能ではない。実は、そもそも人間の存在の意義は、『自然の機械的な進化に抗う』ことによって、いわゆる『超意識』を作り出すことにあるのではないか」というものです。)
ここで興味深いことは、ある命題に対する私の立場が、一夜、一瞬にして「アンカーの消去法はない」から「ある」に変わってしまった点です。
これに関しては、私は、首尾一貫性の欠如について恥じるよりも、自分の世界地図を拡張する (= 今ある自分自身のボックスから外に出て行く) 用意が常にあり、「I don’t know (もしくは I didn’t know)」ということをいつでも言える自分を誇りに思っています。
私は、自分の師匠から「連続的首尾一貫性」と「同時的首尾一貫性」の違いを学びました。これについては、私の CD-ROM 本『サイバーブック: 悟りのための統合的認識論』の「首尾一貫性」のページで以下のように書かせていただいています。
「興味深いことに、このコミュニケーション概念の『首尾一貫性』は、精神主義的な意味ももっています。すなわち、上記に示された首尾一貫性は『同時的首尾一貫性』と定義され、この種の首尾一貫性は通常、偉大な精神世界の導師が見せる非常に顕著な局面の一つです。一方で、これらの導師は同時に、『連続的首尾一貫性の欠如』を見せる傾向があります。すなわち、彼らは、『今ここ』の瞬間にい続けることに集中しきっているので、今日言うことが昨日言ったことと抜本的に矛盾する場合があります。他方、『今ここ』の経験をまったく見逃している『凡人』は、皮肉なことに、『連続的首尾一貫性』を維持しようとすることにあまりにも固執しすぎている場合があります。」
究極的に「同時的首尾一貫性」を達成している人は、瞬間瞬間を一期一会的に生き、かつ瞬間瞬間が各々完全に完結しているので、「いつ死んでも OK」の状態にいると言えます。ちなみに、この状態を作り出すのが「瞑想」の目的であるように、私には思えます。
この「無意識の初期化」と若干の関連性があることですが、 前号のメルマガの FAQ 36 で指摘した「ブラックボックス アプローチ」に関して、二点ばかり付け加えたいと思いました。
一点目は、今回のワークショップである参加者の「私の『ポンコツ』の無意識をどのように『修繕』すればいいですか?」という意味合いの質問に関してです。
私は、この方に、ポンコツの無意識など存在せず、全人類の無意識は、コンピュータのハードディスクのように、すべて同じ潜在性を秘めていて、完璧で、ほぼ「全知全能」です、と指摘させていただきました。
思うに、本メルマガでも指摘したことがあるように、「ある学者の研究によれば、人間の脳には約 100 億個の脳細胞があり、その一つ一つが他の 25,000 個の細胞とのコネクションの可能性をもっていて、この可能性としてのコネクションの数 (100 億の 2 万 5 千乗) は、実に、知られている宇宙に存在する原子の数より多い (!!!) ということです」ということなので、瞬間瞬間において新しい回路を自由自在に開く可能性が常に残されている、という意味において、無意識そのものは、有限の粒子からできているにもかかわらずほぼ無限の現象を映し出し「うる」テレビやコンピュータのモニタのように、ほぼ全知全能である、と言っていいと思います。
ゆえに、ポンコツの無意識など存在しないという結論が導き出されます。
では、なぜ、全知全能の無意識が身体的に、精神的に病気になってしまうのかという命題が残ってしまいます。
これについては、私は、ミルトン H. エリクソンが言ったと言われている「クライアントがセラピストのもとに訪れる理由はただ一つである。それは、本人 (の意識) が無意識と『ラポール』が取れていないからだ」という言質をよく引用します。
(この「無意識とのラポール」のさらなる詳細については、本メルマガの第 48 号の「3. 『デーモン』について」を参照していただきたいと思います。)
私のマインドワークの最大のテーマの一つは、この無意識とのラポールを形成する技を教えることにあります。
二点目は、私が (インターネット自体はあまり使わないですが) 電子メールの大ファンで、緊急以外ではほとんど電話を使わない理由が「入力 –> ブラックボックス –> 出力」の図式にあります。
すなわち、私があるメールをインターネットに送信した場合、インターネットそのものはブラックボックスで、送信するメールと受信するメールを意識化することができるだけで、それ以外のプロセスはすべて「無意識化」されています。
インターネットがここまで大衆に受け入れられてきている最大の理由は、それがこのブラックボックス アプローチで示される「普遍的な無意識の構造」をみごとにマッピング、表出しているからであるように、私には思えます。
このため、意識しか信用できない人は電話に頼る傾向にあり、無意識に全面的に頼れる人ほど電子メールを使う傾向にあるという、私の仮説は、「あまりにも行きすぎた過剰一般化」でしょうか (笑)?
Q36 (122): 先生は、「日本人は自分のボックスから外に出る教育を受けていない、ボックスから出ることを学ばないかぎり、日本に未来はない」とよくおっしゃいますが、この点についてさらに説明してください。
A36 (122): このことについては、まず、二、三日前のニュースが関連しているかと思います。
すなわち、最近来日した米国のオバマ大統領が天皇ご夫妻と会われたときに、90 度近く深々とお辞儀したことに関して、FOX 等の米国の保守系メディアは、「一国の長としてふさわしくない」と批判している、ということです。
このニュースを聞くと、おそらく「一般的な日本人」は、米国大統領の「エチケット」を褒め称える一方で、それを批判する米国メディアに対して憤り、理不尽さ等を感じるかと思います。
私自身、このような一般的な日本人の反応について特に否定するものではありませんが、ただ、全世界的に見て、お辞儀をする習慣のある国民の数は多数決的に言えば、ごく少数派になるだろう (正確な数字はわかりませんが、世界の 60 億人のうちせいぜいでも 10 億人以下ではないでしょうか) という「グローバルな視点」をもった上で、かつ少数派の反応でしかない、という「メタの意識」を失わないでほしい、と思っているだけです。
また、世界の戸籍制度について、私は、最近、mixi に以下の日記を書かせていただいています。
「(私が行ったあるパーティの) 何人かの人々に、文化人類学的に、日本と西洋の違いを伝えさせていただきましたが、一番この人々が驚いたのは、戸籍制度のある国の数でした。
これは、私の調査では、日本、韓国、台湾、スイスの、たった 4 ヶ国です。
皆さん驚愕していましたが、世界の他の百数十ヶ国以上の国々すべては、日本で言う社会保険番号で戸籍制度の機能をまかなっているようです。
私の意見では、このような『国民を土地に縛り付ける』戸籍制度こそ、日本の『革新的発展』を阻害しているのかもしれないと思いますし、また、市町村役場のパンパワーの大半は戸籍制度の維持管理業務に取られているはずだし、もしこの制度がなくなれば、節約できる経費と人件費は膨大である、と思われます。
私にとって興味深いことは、なぜこの問題が国民全体に知られておらず、マスコミも取り上げないのか、という点です。」
この戸籍制度のある国の数は、おそらく一般的な日本人には驚愕すべきことだと思いますが、世界的には、おそらくせいぜい 2 億人の人々 (60 億人の 3.3%) しかカバーされていないという「厳然たる事実」をまず知った上でしか、このトピックの是非を判断すべきではないと思います。
さらに、私は、東南アジアやイタリア、アメリカ等では、ぱさぱさの米が好まれているので、「世界の米品評会」といったものがあるとしたら、日本的なねばねば系の米はけっして優勝しないだろう、ということを耳にしたことがあります。
以上のことは、私は日本人の意見そのものを否定しているのではなくて (どんな意見をもつのもその人の自由であるべきです)、その個人的な意見 (というものが日本の教育の中で存在するとして) に至るプロセスの中で、日本内の限られた情報に基づくのではなくて、常に世界的なグローバルな視点にまず立って、その後になるべく客観的な意見をもつように心掛けていますか、という質問を投げかけるために言及しているだけです。
そうでないかぎり、海外の文化を経験しないまま、日本人が最高だ、とか日本料理が一番だというふうに客観的な比較をしてしないままの判断に終わってしまうと思います。
以上の日本人の一般的パターンと日本人がボックスから出ることが難しいこととが関連しているように思われます。
この状況を打破するためには、私が拙著『5文型とNLPで英語はどんどん上達する!』の中で「21 世紀の国際人になるためめの三大 OS 技能」として挙げた、「インターネット」 (これにより、グローバルな情報の収集が可能になります)、「英語」 (日本語自体が絶対的なものではないという意識が生まれます)、「NLP」 (フレーミング解除 (ボックスの外に出ること) の技能が学べます) の技能を高めることが必要となると、私は考えています。