以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 これが本物の NLP だ!」第 12 号 (2004.3.23 刊) からの抜粋引用です。
* * * * * * *
私は、昨年 11 月末から JMA 社を通じて、東京第一期 NLP プラクティショナー資格認定コース (6 ヶ月間コース) を開講してきていますが、先月 2 月末の第 4 モジュールでは、興味深いことがいく点か起こりましたので、今回のメルマガでその報告をさせていただきたいと思いました。
1. 臨界質量 (クリティカル マス)
私は、本メルマガの第 6 号で以下の比喩を使いました。(地下鉄の駅とネットワークに関する同じような比喩の表現またはその引用はこれまでにも何回か繰り返してきています。)
「比喩を使って言うと、NLP の各モデルは、大都市の地下鉄の各駅とその周辺地域のようなものですが、各駅の周辺地域をフィールドワークとして実際に現地で検証し、駅と駅を結び付けている『地上部分』を歩き回れば回るほど、ある駅と他の駅が地上ではどのように『有機的に』つながっているのかがますます実証的に認識できるようになり、最後には、地下鉄の駅の地上レベルでのネットワークの全体像が見えるようにもなります。同じことが、NLP のモデルについても言えます。」
同じく第 6 号では、この比喩の後に、「NLP プラクティショナー資格認定コースは、上記の比喩で言う地下鉄の各駅の詳細 (NLP の各モデル) について、それぞれ対応した演習とともに個別に学習習得するためにあり、マスター プラクティショナー資格認定コースは、プラクティショナー コースで個別に習得した各駅 (各モデル) 間の有機的な関連性を学習体感して全体のネットワーク (全体像) に熟知するためにあり、トレーナーズ トレーニング資格認定 コースは、全体のネットワークと個別の各駅 (各モデル) の両方のレベルについて、高度な熟知/習得度を達成するためにある、と見なすことができるかもしれません」と続けさせていただきました。もちろん、このとき、私は、プラクティショナー コースの参加中にも、コース参加者に関して、このような「NLP の全体像」が、たとえおぼろげながらにでも見えてくる可能性を否定しているわけではありませんでしたが、どうも現在のプラクティショナー コース参加者の方々に、先月末のモジュール 4 でこのことが起こり始めたように受け取れました。
これは、いわゆる「臨界質量 (クリティカル マス)」、「臨界点」などと呼ばれている現象に関連しています。この現象の最も一般的な例としては、語学聞き取りを集中的に外国語の衛星ニュース番組等を通じて勉強しているときに、数ヶ月間いくら集中して学んでもほとんど聞き取れなかったのに、ある時点で、目から鱗が取れたように、突然すべてが聞き取れるようになることがあることが挙げられます。このように、どれだけ多量の情報を継続的に吸収し続けても、表面的には (すなわち意識的には) 何も起こっていないように見える一方で、無意識のレベルではありとあらゆる試行錯誤が起こっていて、その無意識レベルでいわば脳細胞の全体的なネットワークのコネクションが確立した時点で、突然、それこそ青天の霹靂のように意識的にもそれまでの学習内容すべてが意味をなし始める時点は「臨界量」点と呼ばれていますが、現在私が教えているプラクティショナー コースの参加者の方々も、この臨界質量点に達した、あるいは達しつつあるように見受けられました。
このことが起こった理由としては、プラクティショナー コースの参加者の方々は全員、私のコースと私自身のワーク内容/スタイルに当初から非常に「コミット」されていて、私が指示したように「肯定的な徹底懐疑主義」 (この意味は、自分に自信がある人々は、新しい学習内容を、それが自分にとって適切かどうかを知る目的で、試験的にある一定期間集中的に実験することができる人々である、ということです) の姿勢を貫かれてきているので、当初は断片的な形でしか (すなわち、意識的にしか) コース内容を理解できなかったが、その過程が継続することで、その無意識マインドも、断片的学習済み知識を全体的に相互関連させるだけの「直感」的能力を身に付けてきているからである、と言えると思います。
2. NLP における「カタルシス」
私の 20 年以上に渡る心理療法と NLP の経験によれば、ゲシュタルト、プライマル、エンカウンター、催眠療法でよく見られるクライアントのカタルシス (情緒的爆発が起こる、いわゆる「浄化作用」) は、NLP ではほとんど起こりませんが、しかし絶対に起こらない、というわけでもありません。実際のところ、ここ最近の 1、2 モジュールで、小規模から中規模のカタルシス反応が、コースでのNLP 演習中あるいはコースの外で、ごく小数のコース参加者で見られたようでした。
私の見るところ、「すべての心理療法の学派を統合、超越してきた」学派としての NLP は、既存の心理療法における、文字通りエンドレスな情緒的爆発表現 (これが不毛であることは、本メルマガの第 4 号の「内部に蒸気圧力が溜まってきているやかん」の比喩で示唆させていただきました) を「卒業」した人々が真の意味で享受できる「非常に洗練された心理学」であるわけですが、それでも、NLP 実践者の精神状態に依存して、軽度のカタルシスが起こる場合もないことはありません。
しかし、たとえ、そのようなカタルシスが起こったとしても、完全自己投入するような劇的なカタルシスになることはまずありえず、また、持続時間も比較的かなり短いものである傾向が強く、また、個人的には、私は、NLP における「1 分間」のカタルシスは、既存の心理療法または催眠療法における「数ヶ月間」に渡るカタルシスに匹敵しうると考えています。これは、NLP は「気づきの心理学」であり、各 NLP テクニック演習の実践者は、仮に 1 分間続くカタルシスの中でもそのカタルシスを行っている自分自身を見つめる、または観察する自分を着実に築きあげることができているので、カタルシスの感情爆発といわば無意識的な自己同一化をすることなく、その心の動きを「メタ」(観察者) のポジションで客観的に観察できるようになっているからです。
すなわち、「あることに気づいていられる」ということは、即「そのこと自体を超越している」ということであり、NLP 演習を通じて自分の内的な情緒の動きを見えるようになる、ということは、いったんメタのポジションから見えた後は、その情緒の動きと無意識的に自己同一化する可能性はほぼ皆無に近くなります。このような「超然性」(英語で言う「デッタチメント」)は、私の経験から言うと、NLP 以前の心理学の方法論では起こりえないものでした。
3. 基本に忠実であれ
私は、 本メルマガの第 4 号で、「私自身、NLP と私自身の方法論を組み合わせた学習加速法を使って、NLP、語学、コンピュータ UI 操作等のエリアで、その道の『玄人』 になることに成功してきています」と書かせていただきました。(さらに厳密に言うと、私が自分が玄人だと自負しているエリアは、これら 3 つのエリアと「瞑想」を加えた 4 学習領域です。)
私は、NLP の学習加速法を使いながら、これら 4 エリアで自分の能力をいわゆる「天才」レベルまで至らしめる過程の中で、これら 4 つのエリアの学習過程には、普遍的な学習規則が存在することを発見しました。これらの 4 エリアは表面的には互いに全く異質な領域なので、私は、私が発見した学習規則は、他の「どのような」領域の学習にも当てはまるであろう、と深く自己確信しています。また、その普遍的規則は、私の NLP ワークショップやコースで逐次、機会があるごとに説明してきていますが、興味のある人々には、さらに詳細に説明が可能です。
その普遍的学習規則の根幹にあるのは「基本を完全マスターして、忠実であれ」ですが、このことが理解できない人々が驚くほどたくさん存在するようです。
一つ例を挙げて言うと、英国で私にはアート/ファッション系の学校を卒業した友人が何人かいましたが、彼らは、(Mac ではなく PC でしたが) コンピュータの操作にまったく四苦八苦しているようでした。そのうちの一人にコンピュータの基本操作を教えたこともありましたが、Ctrl キーを押しながらマウスをクリックすれば、非連続のアイコンを複数選択または選択解除できることも、エクスプーラの右ペイン (小ウィンドウ) のデータ アイコンはそのレベル (床) にあるファイルである一方で、フォルダ アイコンはいわばその床にある開きドアのようなもので、そのフォルダをダブルクリックして開けることで、さらに低いレベルのフォルダ階層にどんどん下りていけるというコンセプトさえもわからないでいることを知って驚愕しました。(その人からは、私が 1995 年 の Windows 95 発売以降にコンピュータ操作を学び始めた数年前に「私はコンピュータ プログラミングの学校に通っている」と聞いていたので、私はこのような驚愕を覚えたわけですが、当の本人は、コンピュータ操作について何も知らなかった私が、学び始めてニ、三ヶ月以内に基本以上のコンピュータ UI 操作をマスターしたことを知って、逆に心底から驚愕していたということです。)
私が短時間でコンピュータ UI 操作を習得した方法は、分厚いマニュアルを読破したのではなくて (通常は、このことが必要だと思って、基本をマスターする気をなくしてしまう人々が多くいるようですが)、当時、ロンドン市内の日本書店に行って、何冊かコンピュータ関連の週刊および月刊の雑誌を購入して、その付録の「Windows 95 をマスターするための 100 のコツ」といった小冊子を使って、自力でコンピュータを前に自己演習してこれらの基本テクニックを習得する、というものでした。これらの「無限数ではなく有限数」のテクニックは、言ってみればテニスの場合のラケットの素振りのようなもので、これらの基本テクニックの完全取得、無意識化 (つまり、自動化) なしには、絶対にそれ以上の高度なテクニックをマスターできないことはかなり明らかであると、私には思えますが (そしてさらに、その「高度なテクニック」というもの自体も、実は、すでにマスターした「低次のテクニック」をいくつか組み合わせた、比較的学習が簡単なテクニックであることにすぎないことが多いのですが)、「我流」の方法で自分で法則を見つけていくんだ、そしてそのことが創造的であることの証なのだ、という意気込んだ姿勢で取り組んでいる私のアート系の友人には、この「基本で忠実であることが、実は、その該当の学習エリアで、他の人が達成できないような創造性を生み出していくための前提となる必須不可欠の条件である」という「この曖昧にして明瞭な」事実は思いもよらないであろうと思います。確かに、創造的であろうとするがゆえに、学習過程の入り口を間違って、その学習領域で一生創造的でありえることができないでいる、というのは、非常に悲しい逆説的教訓です。
以上をここに書いた理由は、コース参加者から「今学んだ演習に関してですが、その手順を少し変えてもいいですか?」という質問があったのですが、それに対して私が「手順を変えること自体には積極的に反対しませんが、それよりもまず基本を完全習得した後、自分が熟練の粋に達した後で、自己責任において実験すべきものだと思います」と答えたことにあります。
4. 自分がしていることを知っている教師と知らない教師
上の第 3 項の最後の段落に関連したことですが、私は、以前、英国で、(おそらく 20 世紀最高の「導師」であろうと思われる「グルジェフと NLP」というワークショップに参加したことがありますが、この講師のあまりの無責任さに、途中で中座して、参加放棄したことがあります。(グルジェフには、トランスパーソナル心理学者のチャールズ タートも帰依しています。)
このワークショップの講師は英国人の男性とアイスランド人の女性でしたが、2 日間ワークショップの 2 日目に NLP でよく使うスペイシャル ソーティング (床にマーキングしたスポットを実際に身体的に移動することです) を使って、「自分を見つめる自分を見つめる自分を見つめる」といった演習を紹介しましたが、問題をもっている自分、その自分を見つめている「観照者」(ウィットネス)、そしてその観照者を見ている「名人」(マスター)、の計三つのスポットを想像するよう参加者に求めて、私は唖然としました。というのも、どの NLP の文献を読んでも、さらにはグルジェフを含めたどの瞑想関連の文献を読んでも、人間にとって一番上にある意識レベルは「観照者」(NLP では、よく「メタ ポジション」と呼ばれます) であって、「観照者」を見つめるもう一人の「観照者」はありえても、「名人」等が「観照者」を見るということはありえないし、またそのような人間の心理状態に関する普遍性に逆行するような演習を行うことは、精神的健康の観点から非常に危険である、と思ったからでした。私は、そのときまでにグルジェフの文献はすでにすべて読んでいたので、ワークショップの講師に対して、「これはグルジェフ関連のワークショップなので、この演習のメカニズムが、グルジェフのどの本のどのページに書かれているか教えてください」と聞きましたが、それには答えず (というよりも答えられず)、「あの NLP の創始者のグリンダーもバンドラーも、そのワークショップ参加者にはうむを言わせない形でその演習をまずやるように求めているわけだから、この場合も、何も考えず、(うるさいことは言わずに!) 教師である私たちの言うとおりにまずやってみて、その後で結果がどうなるかを自分で見るように」と答えたので、開いた口が塞がらず、そのままワークショップを中座させていただきました。
この問題は、「自分がしていることを知っている教師 vs 知らない教師」の図式の問題に還元できると思いますが、参加者は、素人であればあるほどこの 2 種類の教師を見分けることができないので、場合によっては、非常に大きな問題になりえるトピックです。教える側の問題としては、他の偉大な教師の表面に見える結果としての行動内容だけを模倣して、その偉大な教師たちが汗水をたらして試行錯誤の末教える内容に到達した、その到達のし方と過程をまったく無視してしまうことにあると思います。
私の、偉大な教師と有害な教師を見分けることのできない素人の方々への個人的な助言としては、該当の教師に関して、できるだけ多くの「間接的な状況的証拠」を集めて、その上で信頼に足るかどうかを判断するしか真の意味での自己防御策はないかもしれない、と言えるかもしれません。もちろん、どのようなレベルであれ、自己観察力を身に付けてきている人々は、それだけ直感的に「偽物を見抜く」能力をもっているはずだと付け加えることもできます。
5. プラトン的イデアの方法論としての NLP
NLP 資格コースを継続してきた上で、現在のコース参加者の方々は、「効果的なコミュニケータ」としての技能をますます身に付けて来られていると確信していますが、参加者の方々から「この演習内容は、現実の場で効果を発揮できない場合もある」というフィードバックが出ました。
私自身、この立場に反対するわけではありませんが、教える側としては、人間は「普遍的コミュニケーション法則」に基づいて機能していて、その法則を明示化できるという、立場で NLP を教えさせていただいています。ある意味は、プラトン的な「理想的アイデア (イデア)」の世界の法則を取り扱っているわけです。私が 1988 年当時にグリンダーとディロージャに (「個人的天才になるための必要条件」ワークショップとプラクティショナー コースで) 学んだとき、彼らは、「コア (中枢)」なるものと「フラッフィー (fluffy)」 (つまり、中枢の回りにある二次的な詳細) とを分けるように奨めていました。この観点から言うと、たとえ、的を得た、普遍的法則に基づく、イデア的な NLP モデル/テクニックであっても、現実の世界で (普遍的法則に則りながらも) さまざまなフィルターを通して発生している事象を前にして、表面的に機能しないように見える場合がある、ということになります。
このような「現実」を前にして NLP モデルを適用する際に重要になることは、1) なぜそのモデルが機能しないのかを分析すること、と 2) NLP 諸前提の一つである「今行っていることがうまく行かないなら、他のことをしてみること」を実行すること、だと思われます。
6. チャンクアップ & チャンクダウン テクニック演習
今回の第 4 モジュールでは、コース参加者の方々に、非常に簡単に見えるチャンクアップ & チャンクダウン テクニック演習 (チャンクのコンセプトに関しては、本メルマガの第 5 号を参照してください) をしていただきましたが、内容的には「あまりにも基本的すぎて」、私自身が過去に参加したどの NLP 資格コースでも、この演習は明示的には紹介されていないほどでした。
私は、参加者の方々の反応が少し心配でしたが、演習後の質疑応答時に「非常に面白かった。他の人の世界地図がどのようになっているかを知る上で非常に役立った」という全般的フィードバックをいただき、非常に嬉しく思いましたし、驚きも覚えました。
この例は、NLP トレーナーとして、まだ NLP 文献に定着していない、非常に基本的な、重要テクニック/モデルが生まれうる 1 例として謙虚に受け止めさせていただきたいと思いました。
7. 最も「動物的」な表出体系
今回のモジュールでのコース参加者から嗅覚体系についての質問がありましたので、この紙面を借りてお答えします。
非常に卓越した NLP 入門書のバイロン ルイスとフランク ピューセリック共著「Magic of NLP Demystified (解明された NLP の魔法)」(1980 年) に以下のような記述があります。
「犬や猫といった動物にとって、嗅覚体系は自らの生存のために重大な役割を演じます。しかしながら、人間の場合はそれほどでもありません。私たちが嗅覚体系の中で、他と比べて数少ない区別分けしかしないことは確かでしょうが、しかし、それは私たちにとって最も効率的な『誘導体系』であるように思われます。…嗅覚的入力は他の体系と同じ神経学的プロセッシングを経て脳に至らないので、誘導体系としてより効率的に機能する傾向があります。」
これは、他の感覚体系とは異なって、嗅覚は脳の視床 (英語では「thalamus」) を通過しないので、他の体系が経る視床によるろ過の対象にならないからのようです。嗅覚体系は、生物個体のサバイバルに最も関連している知覚体系であるように思えますが (たとえば、有毒ガスを認知したり、食べ物が腐っているかどうかを判断するのは嗅覚体系であるという意味で)、確かに、この知覚体系を通じて外界から入力される知覚データが少しでも速く脳体系に伝達されるように神経系統が構成されているのは、理にかなっているように思われます。
8. 審美性と荘厳性
今回、コース参加者から、「皆さんが各グループとなって NLP 演習を入念にされている姿が美しくさえ見えます」というフィードバックをいただきました。
私は、このフィードバック自体非常にすばらしいと思いましたが、あえて誤解を恐れずに言うと、この「儀式を執り行っている人々の美しさ」は、たとえば、光明を得るという共通の目的のために集まった多数のチベット仏教のお坊さんが寺院内の荘厳な雰囲気の中でマントラを唱えながら集団瞑想している姿にも通ずる美しさではないか、と感じました。(このフィードバックをいただいた参加者本人のイメージとは異なっている可能性がありますが。)
いずれにしましても、この NLP 演習テクニックという「規則/しきたり」を黙々と、入念に行うということは、今までに自分がもっていなかった、新しい行動/思考パターンを身に付ける上で不可欠ないわば「厳格で荘厳な儀式」であり、その意味では、(私が「お宅的」と形容することのある) このような「細部と形式への執拗なこだわり」は、普通は、アンフィニッシュド ビジネス、トラウマ、フォビアの形で「中毒性」として表現されるのですが、NLP の場合は、その同じメンタル パターンをある一定の、限定された方向に効果的に「灌漑」(誘導) することで、自分の中に眠っていた潜在的能力が開花したり、ピーク パフォーマンスが常に達成できたり、ますます創造的な人生を送ることができるようになったりすることを指摘するのは、非常に興味深いことだと思います。
9. 東京第一期プラクティショナー コース在校生へのメッセージ
上記の文中、皆さんのフィードバックを公にさせていただきましたが、皆さんのすばらしい学習姿勢をこのメルマガの読者の方々にシェアリングしたかったので、この点ご了承いただけるものと願っています。
また、上記のフィードバックは、コース中に在校生の各人からいただいたものでしたが、集合的統一体としての在校生全体からいただいたものとして扱わせていただきました。
最後に、これは事務的な連絡事項ですが、これまで 5 月末のモジュール 6 の最終日に、コース内で各人にセッションを行っていただいて、それを査定するというスケジュール予定になっていましたが、現在、このコース内の査定に加えて、外部からゲスト クライアントを招聘して、各人にそのゲスト クライアントにセッションを行っていただくという課題も追加実施される予定になりました。これは、在校生以外の方とワークをしていただくことでご自身の実践力を測るための一助としていただくことを目的にしています。詳しくは、次回モジュール時に詳細を告知しますが、この時点で、すでに、心の準備をしていただいた方がよろしいかと思い、ここに事前告知させていただきます。
コース在校生の皆様には、この紙面を借りて、感謝の念をお伝えします。
作成 2023/10/9