以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 新・これが本物の NLP だ!」第 118 号 (2009.10.21 刊) からの抜粋引用です。
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今回は、「北岡新 NLP FAQ、その九」のトピックがカバーされています。
1) 北岡新 NLP FAQ、その九
Q27 (118): (FAQ26 に続いて) では、先生にとっての「個人的天才になるための必要条件」を教えてください。
A27 (118): まず、「個人的天才」を改めて定義させてください。
個人的天才とは、巷に思われているように、レオナルド ダ ヴィンチやモーツワルトやピカソやマイケル ジャクソン等になることではなくて、「自分自身が携わっている各業界業界において、第一人者たりえるほどの個人的な最大限のパフォーマンスを発揮できるだけの特殊能力と技能をもっている人」を意味するにすぎないです。
であれば、たとえば、警察官の天才、ハンバーガー食いの天才、 TV のお笑いの世界を知り尽くしている天才といったものも含まれますし、私個人的には、お乞食さんの天才もいる、と考えています。
また、「個人的天才」 = 「該当の業界で『本物』と言える人」という定義も可能かもしれません。(私は、以前、その業界で「本物」と言える人のパーセンテージは、おそらく、その業界にいる 1 万人に一人、0.01% 程度でないかと算定していたことがあります。)
この前提のもとに、私は、FAQ25 で、以下のようにお答えさせていただきました。
「『本物の NLP』を学びたいと思う方がいるのであれば、私は、その方に、(私が行ったフランス語の左右脳のバランスの取れた学習法ほど極端でなくてもいいですが) 何か自分の専門職または自分の興味のある分野を一つとって、その分野に関して、ほぼその分野の第一人者になれるくらいの徹底的な左脳的学習と右脳的落とし込みをされることを、強く (というか『最小必要条件』として) お勧めします。」
「結論的に言うと、今の日本の NLP の状況は、日本人の語学の学習とまったく同じで、『中途半端な卓越性』を求めているだけで、最高のレベルに達したいというコミットメントも中途半端で、その状態でどれだけすばらしい方法論 (語学で言えば、すばらしい参考書または先生) を学んでも、日々の努力を惜しもうとするので、中途半端な結果しか出ないのは当たり前で、そのことを基準に NLP 自体に限界性があると責任転嫁している図式は、非常に逆説的です。」
前者の引用に関しましては、「本物の NLP」を「本物の業界の能力と技能」と置き換えて読んでいただきたい、と思います。
後者の引用につきましては、「中途半端な卓越性」がキーワードですが、個人的天才になりたい方は、まず、自分が人生、特に自分が従事しているか興味のある業界もしくは分野で単に中途半端な卓越性を求めているのか、もしくは、本当に業界もしくは分野でトップのパフォーマンスを出したいのか、実際に自分の胸に手を当てて、自問自答してみる必要があると思います。
つまり、自問すべき問いは、「平凡な人生で終えたい」のか、それとも「一回かぎりの人生で、最高の瞬間瞬間を、一期一会的に生きていきたいか」です。
私は、常に NLP を学ぶために必要な第一要素は「コミットメント」である、と言っていますが、この問いの答えが後者であることが、そのコミットメントそのものである、と、今、考えています。
この答えが前者であるのであれば、残念ながら、その方は NLP を学ばれても、他のどの優れた方法論を学ばれても、「中途半端な人生」しか達成できないでしょうし、正直、そのような方法論を学ばれることは「時間とお金の無駄」のように私には思えます。
興味深いことは、残念ながら、このコミットメントは、自分の心の心底からの声として聞こえてくるべきもので、他の人が本人に与えて差し上げることは絶対できない、という事実です。これが、私の言う「白い雲の後に隠れた青空」という比喩とも密接に関連しています。
ですので、以下に書く四つの条件の内容は、「一回かぎりの人生で、最高の瞬間瞬間を、一期一会的に生きていきたい」方のために向けられることになりますが、これだけのコミットメントがあれば、以下の条件を満たすことで「個人的天才」になることは、私個人の経験からしか言えませんが、ほぼ保証されたことになります。
1) 単に「行け行け」感のある、情緒的な面を煽る傾向のある「自己啓発」系、「モチベーション アップ」系の方法論 (さらに言えば、右脳的な経験のみを重視し、左脳的知識を極度に軽視する、バランスが致命的に欠けた NLP) では限界性があることを認識する。
2) 個人的天才になるための方向性がまったくわからない状態は、たとえば、360 度のどこに向かっていいかわからない状態であるが、天才になるためにはどうすればいいかの、たとえば、5 度の角度に確実に向かわせてくれるような公式を提示してくれる NLP (別に、この 5 度の角度を教えてくれる方法論であれば、必ずしも NLP なくても OK ですが) を徹底的に学習する。
3) このような、確実に天才にしてくれる方法論を学んだ後、その公式を実生活に徹底的に落とし込めるまで「日々の練習/自己適用」 を継続する。
4) この落とし込みの練習については、一定の天才性に達するまで継続すべきである。
上記の 3) の条件につきましては、 私個人としては、こんなにおいしい「人生の渡り方」を教えてくれる NLP は、ほぼ 24 時間 84,600 秒自己適用 = 落としこみし続けないわけにはいかない状態が、ジョン グリンダー氏から初めて NLP を学んだ 1988 年以来ずっと継続してきていますが、国内でよく聞く、「NLP の落とし込み方がわからない」方の本当の問題は、ひょっとしたら上記の問いの答え自体が中途半端である人なのかもしれません。
さらに、これだけのコミットメントがあれば、新しい学習内容が「第二の天性」になるまでの日々の練習は決して惜しまないと思います。(コミットメントがなければ、この日々の練習ができないのは、火を見るより明らかです。)
このことに関しては、最近ある方から、「NLP の場合もそうですが、ピアノのような音楽的な学習を含めて、どの分野においても、最低 1 万時間の学習と練習を費やさなければ、その分野のトップになれないですね」といった意味のことを聞きました。
私はこの方に完全に同意します。1 万時間とは、 1 日 8 時間計算で約 3 年半ですが、これくらいの時間と労力は最低限必要になると思います。
私は、個人的には、上述のコミットメントがあれば、この時間と労力はまったく許容範囲だと思いますし、これだけの時間かけたら凡人が天才にならないはずはないと思います。まさにトーマス エジソンが言ったように「Genius is 1% inspiration and 99% perspiration (天才は 1% のインスピレーションと 99% の汗からできる)」ということになります。
私の過去の語学学習にしても、たとえば、大学時代飯田橋の日仏学院に通ってフランス語を勉強していたときには、週に 15 時間以上 (4 年間で約 3,000 時間) 授業に出ていましたし、その後 NLP 学習後に自分の英語の能力の完璧化を図った際に、学研の「アンカー」英和辞書の全ページ全行に下線を引く作業にかかった時間は、たぶん数千時間はくだらなかったと思います。
NLP に関しては、80 年代の米国オレゴン州で参加した心理療法は 7 ヶ月間の集中講座でしたが、これは約 1700 時間でした。英国で 2 年間通った催眠の学校での総講義時間は 800 時間程度でしたし、私が修了したグリンダー、バンドラー、ディルツ、ディロージャ主催の各資格コースの総時間数は、約 1,000 時間、欧米で参加した各ワークショップの時間数は約 800 時間でした。
この総時間数は約 4,300 時間となりますが、これ以外にも、英語での NLP 関連書の読書にはおそらく 1 万時間を超える時間を費やしていると思います。
私の精神世界の研究、片手でのタイプ打ちに関しても、「1 万時間のノルマ」は完全に超しているかと思います。
これくらいの時間を、「必ず成功する方向性を教えてくれる」 (この条件は致命的ですが) 方法論の学習、活用、適用に費やせば、その業界または分野で個人的天才になことは、ほぼ保証されている、ということはお分かりになられたでしょうか?
興味深いことは、天才とは、公式を見つけることに長けていると同時に、その公式の現実への落とし込みに非常に長い時間をかけることはまったく厭おうとはしない点です。
さらに、たとえば、日本人は、英語の天才になることを、「私にはそんなに時間も労力もかける気力はありません」等と言って、初めから自己放棄している傾向にありますが、極めて興味深いことは、その当のご本人は、子供の頃、今しゃべっている日本語を習得する際、英語を一から学ぶときよりもっと多くの時間と労力をかけながら学んだ過去があるにもかかわらず、いったんその学習が機械化され、「自然」になった後は、もう一度その過去の学習よりも楽な学習に対して改めて同様の時間と労力をかけることは「不自然」だという理由で、英語の学習に対して動機付けをもてない、点です。
最後に、 4) の条件の「一定の天才性に達する」ことの基準についてですが、私は、本メルマガの第 27 号等で以下のように書かせていただいています。
「語学の分野で、該当の人が該当の言語の達人になったかどうかを見極める判断基準は、その人が理解できない文章に出会ったとき、理解できないのは自分の読解力がまだ足りないのかまたはその文章自体が『誤形成』なのかを的確に言えること、と考えています。
この判断基準は、コンテンツは変わったとしても、他のどの分野でも、達人かどうかについて適用できる、と思われます。」
このレベルに達するまでは、「公式の落とし込み練習」は継続すべきだと考えます。
Q28 (118): 「個人的天才」になるコツはありますか?
A28 (118): そうですね。あります。
まず、私は、本メルマガの第 5 号で、以下のように書かせていただきました。
「人間の脳は、1 時に 7 プラス マイナス 2 (すなわち 5 ~ 9) のチャンクを処理することができると言われます。このことは、仮に処理する必要がある情報数が多すぎる場合は、これらの情報を、各々 5 つから 9 つまでの情報 (チャンク) を含む、5 つから 9 つまでのグループに再編成することによって、それらの情報を処理することがしやすくなることを意味します。これにより、私たちは 25 (5 x 5) から 81 (9 x 9) 個の情報を比較的容易に処理できることになります。さらに、仮にさらに低い論理レベルにさらなる副チャンクを作る場合 (このプロセスは『チャンクダウン』と呼ばれます)、私たちは、125 (5 x 5 x 5)、729 (9 x 9 x 9) 等の数の情報を比較的苦労なしに処理することが可能になるかもしれません。
チャンクの概念は、NLP クラシックと言えますが、一つ私自身が非常に興味深いと思う事実は、各チャンクに 7 つのサブチャンクを含めながら、7 回チャンクダウンするだけで、私たちはすでに 823,543 (7 の 7 乗) 個の情報を比較的簡単に処理できるであろうということです。
このように考えると、いわゆる天才と言われている人々は、『該当の技能の学習過程で、これらのチャンクの整理、再編成が得意な人々であるだけ』のようにも思えます。言い換えれば、天才は、数個の選択肢から 1 つを選ぶプロセスを体系的に数回繰り返すことで、極めて洗練されたパフォーマンスのように見える内容を提示しているだけの人、と定義できるかもしれません。このため、これらの天才が行っていることは、各チャンキング レベルでは比較的簡単なタスクである一方で、彼らは、数の限られた適切なチャンクから数の限られた適切な情報を体系的に、首尾一貫して選択できるので (この作業自体もそれほど複雑ではないはずです)、天才たりえているのです。この単純なパターンが非常に複雑な、洗練されたパターンを生み出すメカニズムは、後述の『フラクタル』のプロセスと非常に似ています。」
つまり、私は、たとえば、見事な演技をする歌舞伎役者がいたとしたら、その本人が何をしているかわからない観客にとっては、 その役者は、誰も真似のできない「超人」であるように見える反面、その本人にしてみれば、単純な 7 つの行動選択肢の中から一つを選ぶという行為を繰り返しているだけではないかと見ています。
すなわち、この役者は、 7 つの行動選択肢の中から一つを選ぶという行為を 7 回繰り返すだけで、観客に対して、すでに 823,543 通りの「柔軟な演技のし方」を見せることができるようになることになります。
言い換えれば、観客には、この役者は 823,543 通りの行動のし方を知っていると見える反面、本人は、意識的または無意識的に、場面場面に応じて、7 つの行動選択肢の中から「その場に最も適した一つの選択肢」を 7 回選び続けることができるようになっているだけなのです。
私にとって、その場その場の状況で最も適した行動選択肢を選ぶように自己訓練することを可能にさせてくれたのが、まさに NLP でした。
次に、非常に興味深いことは、「個人的天才」になるためには、複雑な学習はいっさい必要ないという点です。
必要なものは、唯一、ごく初歩的で、基本的な行動選択肢を 7 つ (この数字は、あくまでも象徴的なものです) もつことだけです。比喩を使えば、7 つの CD-ROM だけをもって、状況に応じて最も適切な一つの CD-ROM を瞬時に選び続けることができるだけで充分です。
このことによって、 その CD-ROM (行動選択肢) を単独または自由自在に組み合わせながら使うことで、比較的容易に、誰も真似のできないようなピーク パフォーマンスを発揮できるようになります。
ただ、以上のことには一つだけ条件があって、それは、CD-ROM (行動選択肢) の中のコンテンツが、いっさいぶれないように、完全無比的に徹底的に学習/習得済みであるということです。
たとえで言うと、ジャグラーは、個々のジャグリングの技を組み合わせて、超人のようなパフォーマンスを発揮することができますが、その個々の技は、おそらく何百時間、何千時間もかけて習得されたものであり、また、ごくわずかの誤差もない形で自動化/機械化されている必要があります。
個々の CD-ROM の中ではいっさい自由が許されない反面、その外では、その組み合わせは自由におこなっていいというメカニズムは、究極の逆説のように思えます。
天才になれない人々の問題は、CD-ROM の中を適当にいじりまくることで自分が自由であることを自己表明したい反面、外の複数の CD-ROM の組み合わせに関しては、他の人が見出した組み合わせ方を学んだり、真似したりするだけで、極めて保守的で、自分が自由であることを求めていない点にあると、私には思えます。
私自身のプリゼンのし方に関して言っても、まず状況をカリブレートしながら、コンピュータのデスクトップにある約 7 つのアイコンのうち最も適切なものとしてどれをクリックするかを瞬時に選びますが、いったん (たとえば Word の) 実行ファイルが立ち上がったら、私の「無意識ちゃん」は冒頭 1 行目から最後の行まで、いっさいの狂いのない形で、その文章を一字一句逐語的に自動的に読み続けます。この精度は、異なる状況で任意の実行ファイルを立ち上げて内容を自動的に読み上げる際、どこでどう読み間違えるか、どこで何を知っていて何を知らないかは、 毎回毎回寸分の違いがないほど、まったく同じです。
このように、どのファイルをどのようにいつ立ち上げるかの「プロセス」に関しては、私は、自由自在ですが、ことファイル内の「コンテンツ」を読み上げることについては、いっさいの自由を放棄しています。
ちなみに、一旦立ち上がったファイルを読む際まったく無意識にまかせて完全自動化させることで、意識は状況のカリブレーションに回せるので、さらに状況の変化に敏感でい続けることができ、さらに適切なファイルを最も適切な形で開くことができるようになるという「良循環」が起こり始めるという、決定的な利点が存在しています。
以上が、私の知るかぎりにおいて、最も簡単な「個人的天才」になるコツです。
もちろん、以上のことを左脳的に、耳年増的に知っていることと、実際に右脳的にできることの間には雲泥の差があることも指摘しておく必要があります。