以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 新・これが本物の NLP だ!」第 117 号 (2009.10.11 刊) からの抜粋引用です。
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今回は、「北岡新 NLP FAQ、その八」のトピックがカバーされています。
1) 北岡新 NLP FAQ、その八
Q25 (117): なぜ先生のメルマガはこれほどまで難解なのですか?
A25 (117): この質問は、興味深いですね。
思うに、私には、高校時代二人のヒーローがいました。一人は、当時『いちご白書』という米国のベトナム反戦映画 (この映画は、国内の同名の映画またはドラマとは無関係です。また、ばんばひろふみの「いちご白書をもう一度」の曲は知っていても、その元となっている、キム ダービー主演の 1970 年のこの映画を実際に知っている人は少ないと思います) のサントラで演奏していたニール ヤングです。特に、彼の「ダウン バイ ザ リバー」、「カウ ガール イン ザ サンド」、「サザンマン」、「ヘルプレス」等は、私の青春そのものです。非常に興味深いことは、ニール ヤングは、1972 年作のアルバム『ハーベスト』の「孤独の旅路 (ハート オブ ゴールド)」で世界的に大ブレークしましたが、私の好きなニール ヤングは、このアルバムの前作である 1970 年作の『アフター ザ ゴールド ラッシュ』までです。
もう一人の私の青春のヒーローは、その後ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎です。特に、彼の『個人的な体験』、『日常生活の冒険』、『空の怪物アグイー』、『万延元年のフットボール』等は、私のその後の人生と生き方に決定的な影響を与えています。 この場合も、私が好きな健三郎は、1973 年刊の『洪水はわが魂に及び』までです。
当時、健三郎の文体は「翻訳調で極めて難解だ」と言われていましたが、一度彼の「ネチネチした」、しかし非常に論理的な文体の中にどっぷりと漬かると、完全に彼の世界に深くはまり込んで、そこから抜け出せなくなってしまいました。最近、私のメルマガの読者から、私自身の文体に対して同じようなコメントをいただくことがあることは、本当にうれしい限りです。
健三郎の文体が私の文体に影響を与えていることは自明ですが、その他にも、長文の文体を得意とした米作家のウィリアム フォークナーや仏作家のマルセル プルーストが、同じく私の文体に影響を与えています。特に、プルーストの『失われた時を求めて』は、大学時代、原書で読破し、学士論文もフランス語で書き上げました。彼の文章は、関係代名詞と関係副詞を使って、ピリオドのない、延々と数ページ以上に及ぶ単一の文群から成り立っていますが、日本語の場合、関係代名詞や関係副詞がないので、私は、丸括弧の中に文を挟むことで、これらを代用しています。私の文章では、括弧の中に括弧が入ることがありますが、これはそのためです。
以上の理由から、私の書く文章は、意識的に難解になっていますが、このことに関して何点か述べさせていただきたいと思いました。
まず、私の文章が難解である、という理由から、私の教えている NLP も左脳的で、耳年増的な、人を実際に変えれない NLP であると思われているメルマガ読者がいるようですが、これは完全なる誤認ですね。
おそらく、そのような方が、私が「私は、今までの 117 号のメルマガの中で、『あえて意識的に』左脳バンバンの内容だけを『垂れ流して』きていますが、一点だけ決定的に明確にしておくべきことは、このおそらく数十万語以上にわたる文章の中で、私の中で『右脳に落とし込めていない』内容は、『いっさい』書いていません」と言うのを聞くと、驚愕して、開いた口がふさがらなくなるのではないでしょうか?
つまり、私の中では、まずどれだけ難しく左脳的に考えた文章であっても、その前またはその後必ず、自分の中で右脳的に「皮膚感覚としての落とし込み」ができている内容しか、講義中にしゃべったり、メルマガに書いたりしていません。
ということで、本メルマガの第 110 号で示した以下の図式
1) 左脳的経験も右脳的体験もないレベル
2) 左脳的経験があって、右脳的体験がないレベル
3) 右脳的体験があって、左脳的知識がないレベル
4) 右脳的体験と左脳的知識と両方があるレベル
のうち、私は 4) のレベルでものを話し、書いているつもりですが、私が言うことについての「参照機構」のない方には、私が 2) のレベルにしかいないと見えるのも、しごく当然だと思います。
その「参照機構」 (「参照枠」とも言われますが) についてですが、私は、最近、参照機構とは「右脳的体験に落とし込まれた左脳的知識」であるという、灯台下暗し的な発見をしました。
思うに、日本では、「狭く、深い」知識よりも、「広く、浅い」知識をもっている人が敬われている、と聞きました。
このこと自体は、該当の人が活躍している業界についての「参照機構のない左脳的知識」しか追い求めていない場合は、何の外の世界も知らない世間音痴の人を作り出すという意味では、私も完全に同意できますが、しかし、 その業界の知識において、すべて右脳的に落とし込んだ参照機構も同時に合わせもっている場合は、専門馬鹿どころか、他の業界もリードできるような天才を作り出すだろう、と私は考えています。
このような逆説的なことが可能になる理由は、
1) 左脳的知識を右脳的体験に落とし込む作業自体が、抽象度が高く、他の業界にも適用できるような普遍的な「公式」の発見につながる
2) この作業を通じて、「水平的学習」から「垂直的学習」への移行が可能になる
3) 発見された普遍的公式に他の業界の人々も基づいていることが判明する
といった点にあります。
二番目に、私の教える NLP は、師匠から弟子に直接伝える「口頭伝授の秘伝」と捉えていますので、ある意味、これくらいの「左脳的お遊び」に辟易される場合は、その秘伝を受けられても、元々、逆説的に、左脳的にしか理解されない方だろうと思わせていただいている部分はあります。このことに基づいて、自分の文章をあえて難しくしています。
三番目に、日本の NLP ピアは、「NLP 演習を右脳的に理解しなさい。左脳的質問を謹んでください」というスタイルで教える場合がほとんどだ、と聞いています。
欧米でも、そういう右脳的 NLP トレーナー、さらには、NLP のエッセンスをわからないまま NLP を教えている人々が無数にいますが、欧米のいいところは、そういう「浅い、偽の」 NLP に飽きて、本物の NLP を求めようとしたとき、たとえば、ジョン グリンダー、ロバート ディルツ、ジュディス ディロージャといった、本物の NLP を教えることができ、かつ参照機構に基づいた左脳的知識を提供してくれる場所が、少ないながら、ちゃんとあるという事実です。
私は、約 20 年間の英国滞在から 2002 年に帰国しましたが、この 7 年間の懐疑的探索の後でも、上記の三人のレベルに匹敵する NLP を教えている国内の人または団体を見つけきれていません (そもそも、もともと存在していないということになりますが)。
もちろん、成功しているかどうかは別にして、私が帰国したそもそもの理由は、そのギャップを私が埋めたいということだったわけで、2002 年以来、首尾一貫して、このことを達成しようとしてきています。
その中で、私の文体が難解になることも、ある意味「必要悪」なことです。
四番目に、最近のマーケティングは、マーケッターの側の大衆啓蒙の道具ではなく、大衆の考えることが常に正しいと捉える「大衆至上主義」に変わってきていると聞いています。
大衆啓蒙も、場合によっては、ヒットラーのような人を生み出すかねないですが、大衆至上主義も、「事なかれ主義の極み」を生み出すという意味では、私には、同様に、危険のように思えます。
たとえば、日本の携帯電話市場は、他の市場とは異なる独自路線を取っていて、他の市場との互換性がないことで有名ですが、たしかに、「昔のトランシーバーの延長線的機器」としか私には思えない、この携帯電話に、なぜここまでこと細かい機能が次から次へと必要になり、大人も子供も赤ちゃんも、日本の総人口がこれほどやっきとなっているのか、私には、非常に危険な状況になっているとしか見えません。
ちなみに、私は、英国滞在中の 1990 年代初めにフィンランドの電気通信機器メーカーのノキア社と国内の大手携帯電話機器会社数社との交渉会議の際の通訳をロンドンでしたことがありますが (当時、私は、英国でエグゼキュティブ通訳と翻訳をしていました)、この席で、ノキア側は、すでに当時「なぜ、日本のユーザーはバイブレーションやカメラ機能が必要なのか、電話で話ができて、テキスト メッセージが送れるだけでユーザーは満足する欧米のメーカーにはまったく理解しがたい」といったニュアンスの発言をしていました。
ということで、私の難解な文体は、大衆の嗜好性に流されない、啓蒙の意味をこめて、あえて選択されている、ということになります。
(追記: この FAQ25 を書いた後、読み直しながら気づいた、極めて興味深い点があります。
上で、「プルーストの『失われた時を求めて』は、大学時代、原書で読破し、学士論文もフランス語で書き上げました」と書きましたが、確かに、大学卒業時点では、(日仏学院に 4 年間通っていた、という事実はあったとしても) 私は、左脳バンバンの人間で、間違いなく、「2) 左脳的経験があって、右脳的体験がないレベル」の人間でした。
このことを変えたのは、間違いなく、卒業後に即赴いたサハラ砂漠でのフランス語の通訳の体験でした (私を北アフリカに行かせた、大きな要因は大江健三郎の『日常生活の冒険』だった、といっても、あながち誇張ではありません)。
当時学部から大学院に進み、現在、大学でフランス語の教授をしている、当時の友人/フランス語の学友が二人いますが、私も同じ道を進めた可能性もありましたが、少なくとも、左脳バンバンだった私が「象牙の塔」に入っていたら、おそらく人生はその時点で終わっていたと思います。
それを救ったのは、サハラ砂漠での、現地でのアラブ人との「実際的な接触」と、(よく私が冗談に言っている) 「ラクダとサソリとの戯れ」と、そして、古代ローマ遺跡の廃墟を含む「悠久の大自然との遭遇」であったことは、間違いありません。
今思うに、このようなフランス語の徹底的左脳的学習 (学士論文のフランス語での執筆) と右脳的落とし込み (実際のアラブ人とのフランス語での会話) のバランスの取り方のパターンが、私のその後の NLP 学習と教え方の中に見事に繰り返されていることは、非常に興味深いことです。
同時に、「自分自身と人を変えれない NLP は無価値だ」という私の現在の立場は、語学学習時に私がもった「実際に現場で通じず、使えない語学学習は、時間の無駄で、『糞』だ」という強い思いと見事に呼応しています (この辺に、国内の戦後教育に洗脳されてきていて、「皆が進む方向が正しい」と思い込まされている方々と、若い頃から「因習打破者 (iconoclast)」として自己規定して、独自路線を歩んできた私との違いが象徴的に現れているのかもしれません。前者の教育法は、結果的には 60 万人のニート族を生み出している反面、私の教育法は今後の日本を救いうる、と、今、声高に宣言したい気持ちでもあります)。
「本物の NLP」を学びたいと思う方がいるのであれば、私は、その方に、「(私が行ったフランス語の左右脳のバランスの取れた学習法ほど極端でなくてもいいですが) 何か自分の専門職または自分の興味のある分野を一つとって、その分野に関して、ほぼその分野の第一人者になれるくらいの徹底的な左脳的学習と右脳的落とし込みをされることを、強く (というか「最小必要条件」として) お勧めします。
このことで何が起こるかと言うと、
1) 同時に NLP を学ばれることで、この方がその分野で第一人者になることが助けられる
2) その分野での NLP の公式の落とし込み方が右脳的に理解できる参照機構が生まれるので、上述の「発見された普遍的公式に他の業界の人々も基づいていることが判明する」ことが、実際的に体感できる
の二つのことが起こると思われます。
結論的に言うと、今の日本の NLP の状況は、日本人の語学の学習とまったく同じで、「中途半端な卓越性」を求めているだけで、最高のレベルに達したいというコミットメントも中途半端で、その状態でどれだけすばらしい方法論 (語学で言えば、すばらしい参考書または先生) を学んでも、日々の努力を惜しもうとするので、中途半端な結果しか出ないのは当たり前で、そのことを基準に NLP 自体に限界性があると責任転嫁している図式は、非常に逆説的です。
中途半端を求める人には、中途半端な結果しかもたらされないという厳然たる事実が残ります。)
Q26 (117): 先生ご自身にとっての「個人的天才性」を説明してください。
A26 (117): 私は、たとえば、昔から語学は得意でしたが、NLP 学習後、ごく少数の領域の技能に NLP を自己適用して、その領域内で自分を「個人的天才」にしたと断言することができます。
この点については、本メルマガの第 68 号で以下のように述べさせていただきました。
「私は、1) 英語を含む語学、2) NLP、3) 精神世界、4) 片手でのコンピュータの小キーボード操作、の 4 つの領域に関しては、その一つ一つに関して、他のどの日本人にも負けないであろう技能とノウハウを身につけていると自負しています。(このことは、私の過去の試行錯誤的なコンテンツ学習に費やした時間と努力についての自己満足と自己激励ではあっても、別に自分のエゴに関する自慢ではありません。なぜならば、私は、この 4 つの領域以外のこと (自動車の運転、水泳、会計、工芸、電子工学、等すべて) については自分はまったくの「ど素人」と認めることができるからです。)」
この四つの領域に関しては、「4) のコンピュータの小キーボード操作」において、片手で英文和訳およびタイプする時間が、健常者のプロの翻訳家の三分の一以下になるほどのノウハウを、NLP の適用によって発見してきています。
さらに、「1) 英語を含む語学」に関しては、FAQ25 で、1990 年代初めに当時、英国でエグゼキュティブ通訳と翻訳をしていて、ノキアと国内大手携帯電話機器会社との交渉会議で通訳した、と述べましたが。他にも、当時、英国でフォーミュラ ワン関連の専属通訳をして、F1 ナンバーツーのマックスモーズリー氏に会ったり、当時英国内にあったフェラーリ チームの F1 工場内を特別に見物したりしたことがあります。さらに、ダイアナ妃の従姉妹の女性とウィンストン チャーチルの親族の方が来日されたときには随行通訳を行い、帝国ホテル内の赤絨毯の上を歩いたり、明治神宮の一番奥まで入ることを許されて拍手を打ったりしたことがあります。また、ホテル オークラでカザフスタン共和国の大臣の通訳をしたこともあります。
また、HTML エディタの定番であるドリームウィーバーのバージョン 2 の製品のマニュアルとユーザーインターフェイスの翻訳すべては、私が手がけた、と聞いて驚かれる方もいるかと思います。
残りの「2) NLP」と「3) 精神世界」につきましても、私個人としては、「極めつくしている」感が強いです。
そして、この四つの領域に関して、参照機構をもちつつ、「狭く、深く」追求していった末に発見した結果を、たとえば、拙著『一瞬で新しい自分になる30の方法』で、「アメリカン クラッカー モデル」等として表すことで、「天才になるための学習の普遍的な公式と法則」を提示させていただいています。
このように、私は、とうてい「NLP の専門馬鹿」などではなく、これらの (NLP を除いた) 他の三つの領域において、NLP を特化した形で自己適用して、最高のパフォーマンスが出せる自分を作ってきていたという自負をもっています。
ちなみに、私の「客観的な基準」から見て、これら NLP の自己適用を通じて自分の技能を「完璧化」した四つの領域のうち、私のどの技能がその中でも特に最高かというと、本メルマガの読者の方々には極めて意外なことでしょうが、実は、NLP でも、精神世界でも、片手のキーボード操作でもなく (もちろん、これらの技能もすでに一定の水準以上に行っているという自信はありますが)、実は語学であり、それも、語学といっても、読み書き話し聞くのうち、「英語の文章を書く」能力です。
私の五文型を守った、それも非常にこなれた、自然な英文構成力を評価できる人であれば、「日本人の書く英語がここまで達成可能か」と驚愕されると思います。
聞くところによると、スティーブ ギリガンは、「NLP で天才のエリクソンを生み出せたか」という辛辣な批判を NLP 共同創始者に対してしているらしいですが、たしかに二人目のエリクソンは生み出してはいないにしても、私は、個人的に、NLP で上記の四つの領域で「個人的天才」になったと自己認識しています。
私がこれらの四つの領域で達成したことを正当に評価できる方が私の各能力を査定したことがないことが、「私は、単なる NLP の資格コース ビジネスの先生ではなく、実生活上、NLP の自己適用を通じて、該当の業界で天才になっている」ことがいまだに広く認められていない大きな理由だと考えています。
(追記: 上に、「客観的に見た、私の最高の能力は『英語の文章を書く能力』である」と示唆しましたが、思うに、私の『日本語の文章を書く能力』もそこそこ行っていると思いますので、私は、現在、全般的に書く能力が一番高い、と言えるのかもしれません。)