以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 新・これが本物の NLP だ!」第 113 号 (2009.9.10 刊) からの抜粋引用です。

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今回は、「トレーナーズ トレーニング コース開始される」、「北岡新 NLP FAQ、その四」のトピックがカバーされています。


1) トレーナーズ トレーニング コース開始される

先週末にNLP インテグラル アソシエーション主催の第一期トレーナーズ トレーニング コースが開始されました。参加人数は 13 名で、これは、適度なサイズのグループだと思います。

内容は、昨年大阪で開催した「ブラシュアップ (暫定) トレーナーズ トレーニング コース」の内容を踏襲したものですが、告知してきていますように (また、下記の FAQ にもあるように)、私の最近の「無意識・ドリーム ワーク」の内容も取り入れた、進化バージョンのコースです。

たとえば、NLP の諸前提の一つである「エネルギーは注目が払われるところに流れる」の意味を、無意識的、右脳的に完全理解するための演習や「自分の内的状態を他の人に転移するテクニック」演習等が紹介、実践されました。特に後者は、苫米地英人の初期の本の中にあった「二人の間に完全なホメオステータス (極めて強固なラポール) が成立されている場合、一人が内的世界に東京タワーと青い空を描くと、自然と、もう一人の内的世界に東京タワーと青い空が描かれ、かつ前者が青い空を緑にすると、後者の青い空も自動的に緑色に変わる」 (逐語引用ではありません) という状態を、実際に明示的に作り出すテクニックであるという点において、「NLP とオカルトの狭間のテクニック」と形容しても過言ではないかもしれません。

このような無意識ワークは、「自分はすばらしいトレーナーである」という「大いなる勘違い」をしたり、自分の内的状態を自由に変えることでコース参加者の「集合的状態」に影響を与える能力を開発する目的をもっているので、「プリゼン主体」であるべきトレーナーズ トレーニング コースの中であえてこれらのワークを紹介、実践することには、なんら矛盾はない、それどころか、必須かもしれない、と私は考えています。

参加者の方々は「コア」な方々ばかりで、もしかしたら、国内の NLP 業界に「革命」を起こせるかもしれないような非常にユニークなワークの場を共用させていただいているという思いを強くもちました。

参加者の方々からは、「この週末は非常に内容の濃い、すばらしいワークの場でした」といった感想をいただいています。

私は、「同時的首尾一貫性」として、しばしば前言を覆す癖がありますので、今回は「このコースは最初で最後です」とは言ってきていませんが、私の無意識ちゃんは、今、「このコースで完全燃焼して、唯一無比のワークにしたい」と感じていると言っても嘘ではないですね。

それくらい充実した第一モジュールでした。第二モジュールは今週末に開講されます。

なお、現在、11 月の最後の週末に二日間の「無意識マインド ワーク」ワークショップを開講する予定ですが、その際に、上記の 2 つの「新テクニック」を紹介することにしたいと思っています。


2)
北岡新 NLP FAQ、その四

Q13 (113): 最近の北岡 NLP ワークショップの方向性について説明してください。

Q13 (113): 最近の私の方向性は、無意識ワーク・ドリーム ワーク志向ですね。

これは、ジョン グリンダー氏の最近の「ニューコード NLP の方向性」とも被っていると思います。

思うに、「オールドコード NLP」には、マインドの意識的部分に働きかける「個人編集テクニック」を通じて無意識を変える、というメカニズムがありましたが、ニューコード NLP では無意識に直接働きかける割合が極度に高まっていると、言えます。

本メルマガの第 108 号で、私は、「変性意識状態の他の定義としては、ユングの言う『アーキタイプ (元型)』、『コンプレックス』、『集合的無意識』との『接触の場』として彼が提唱したように思える『アクティブ イマジネーション』、(ユダヤ密教のカバラの言う) 『アストラル プロジェクション』、モンロー研究所のヘミシンク技法で達成されるという『幽体離脱』状態、催眠で言う『入眠時状態』および『出眠時状態』、さらには、催眠状態や瞑想状態そのものが挙げられると思います」と書きましたが、私には、このような変性状態下でのマインドのパターンを変えると、そこから戻ってきたときの「通常意識」にも著しい、恒久的なパターンの変化が見られるように思えます。

同様のことは、ドリーム ワークでも達成できます。たとえば、HNLP (ヒューマニスティック NLP) の創始者のジュリー シルヴァーソーン&ジョン オバーダーフは、「意識」、「無意識」、「超意識 (彼らは『Higher Conscious Mind』と呼んでいますが) と「覚醒状態」、「夢見状態」、「熟睡状態」をそれぞれ対応させているようで、特に夢の見方を変えることで、三つの状態の間を整合させ、「自我」をホーリスティックに変えようとする試みを行っているようです。

このことは、もちろん、ニューコード NLP に影響を与えているカルロス カスタネーダのシャーマニスティック ワークとも、最近私がお会いしたアーノルド ミンデル氏の POP (プロセス志向心理学) ワークとも密接につながっています。

ところで、このようなワークは、一見、たとえば、実践的結果を求めるビジネス系の方々とはまったく無関係のように見えますが、私の意見では、多くの人々に影響を与えたり、自分のカリスマ性を高めたりするためには、必然的には、自分の無意識パターンを変え、人々の無意識に訴えかける力を高めるようにしなければならない、という意味において、高質なビジネスマンになるためには「絶対不可欠な」学習技能です。

ということで、たとえば、私の北岡塾初級編では SRCF/C (状態管理、ラポール、カリブレーション、柔軟性、首尾一貫性) の、どちらかというとオールドコード NLP 的なコミュニケーション一般の基本技能が学ばれ、中級編では、無意識・催眠ワークの技能が学ばれるようになっていることにも、それなりの必然性が存在しています。

Q14 (113): 北岡新 NLP FAQ の 「A10 (112): 先生は昔から心理学に興味があったのですか?」の内容は、一部、「ネガティブ キャンペーン」とは言えませんか?

A14 (113): この質問は該当の FAQ の「国内最大手の一つである NLP 団体の代表もライフダイナミックスから派生していて、『会員勧誘』等に関してその手法を使っていると聞いていますし、最近私が関与しているメキキという会の No.1 と No.2 の方々も元ライフダイナミックス系の団体の幹部だった、と聞いています」の箇所に関連しています。

私自身、すばらしいセラピー、カウンセリング、NLP 等の方法論を人に伝えることと、その伝えている本人がどのような背景から来ていて、どのような認識論的土壌にいるか、とはまったく無関係だと、考えているので、私が他のトレーナー、プリゼンターの理論的・歴史的背景を指摘することは、その人々自身に対する批判や攻撃にはならないと、思っています。

私自身、NLP を知る前は、インド人導師に弟子入りして、その米西海岸のコミューンで 1 年以上修行を積んだということを、公言して憚っていませんし、逆に、該当の FAQ で私が指摘した方々あるいはその他の方々も、(別に意識的には隠してはいるわけではないと思いますが) 公の記録に残るように、そして市場からさらに客観的な評価を受けるように、自身の方法論の出所を明示化すべきだ、と考えます。

ところで、私自身、「エスト」を体験的にもっと知りたい、という欲求を首尾一貫してもってきていましたが、残念ながら、先方の理由で、それが実現していないという、非常に興味深い経緯があります。

一点目としては、1990 年代初めに、私は、ロンドンでエストの派生団体の「ランドマーク」のワークショップに参加申し込みしましたが、当日、会場の外で「インタビュー」があり、「あなたのワークショップ参加の目的は何ですか?」と聞かれたので、(当時、私は、変性意識の研究の真っ只中で、インド哲学的な「悟り」のプロセスを、現代西洋的方法論である NLP で加速化できないか、という実験を行っていたので) 「NLP を通じて悟りを得れるということを他のワークショップ参加者に納得させることです」という意味合いのことを伝えたら、そういう目的であれば、参加をお断りします、と言われ、参加費も返却され、残念な思いをしたことがあります。

二点目は、最近、メキキの会の No.2 の方が指導するワークショップに参加しましたが、このワークショップへの私の参加決定のプロセスが、私にはかなり強制的に思え、また、数回のスケジュール日程は決して後で参加辞退できない、等の条件が突き付けられました。その中で、初日の朝のオリエンテーションの最後にリーダーが「今から皆さんに 15 秒を与えます。その 15 秒間に、このワークショップ参加を続けたくないと思う方はどうぞ退席してください」と言われたので、私は、この方から、実質的に初めて「自由意志の履行の機会」を与えられたと思ったので、この機会をありがたく活用させていただいて、退席し、参加を取りやめさせていただきました。

ちなみに、このような状況で退席する人がいったいどのくらいいるのかは知りませんが (日本人の場合は、西洋人と比べて、その割合が極めて低くなるのは、明らかだと思われますが)、後で、このワークショップに参加し続けた方から「状況はいろいろありますが、あの場はネットワーキング (コネクション形成) の場ですからね」と伝えられました。

私は、どちらかというと、「外交」を選ぶより、「筋を通す」人ですね。(だからこそ、ビジネスは下手ですね、とはよく言われますが (笑)。)

Q15 (113): NLP の「メタ」について説明してください。

A15 (113): 私は、個人的には、「純粋なメタ」は、「非二元論的ヴェーダンタ」の創始者であるシャンカラチャリヤの言う「アートマン=ブラーマン同一説」と等価と考えています。(シャンカラチャリヤは、紀元 8 世紀のインドの哲学者で、私の、グレゴリー ベイツンとならぶ、認識論的師匠です。プラトンと並ぶ、古今東西の最高の哲学者と評されているようです。一応、英訳されている彼の本はすべて英国時代に読み込みました。)

実際、ヴェーダンタの書等では、「観察者 (Witness) は人間の最高の意識状態で、それ以上の状態はない」とされていて、「観察者」を意味する NLP の「メタ」は、極めて精神世界的な意味合いの強いモデルです。

シャンカラチャリヤは、「最高の存在」 (私の理解では、NLP の言う「純粋なメタ」) は、目で見れず、耳で聞こえず、手で触れず、鼻で嗅げず、舌で味わえない何かでであると定義しているので、これは、物質界と森羅万象を超えたものであるということになります (さらに、NLP 的に言うと、ディルツの 5 つの「心身論理レベル」を超えたものであるということになります)。私の理解では、この「最高の存在」は、仏教の般若心経、道教の道経等でも「老若」、「生死」、「善悪」、「苦楽」等の二元論を超越したものとして示唆されているので、古今東西の宗教が、名は違えど、同じことを言っていることは、非常に興味深いです。

ちなみに、最近、ある方が「ゼロ磁場」について語ったときに私が行ったコメントも、このトピックに関連してくるので、このことについて語りたいと思います。

この方は、「ゼロ磁場」とは磁場の値がゼロのことではなく、プラスマイナスがゼロとしてバランスが取れている状態だとおっしゃいました。

ここで、私は、「ということは、一瞬一瞬において、プラスとしての森羅万象とマイナスとしての『自己』は、常にプラスマイナス ゼロとして均衡が保たれているはずであり、このことは、たとえ潜在的な形であったとしても、自己の中に『すべて』 (森羅万象) が、包含されている、という意味になりますね」と発言させていただきました。

つまり、仮にもし瞬間瞬間において全宇宙が均衡していて、プラスマイナス ゼロの状態が保たれ続けているとしたら (私は、この状態を「飛んでいる矢を絵に描いたら、矢は止まっている形で描かれますよね」と形容しました)、たえば 5 としての森羅万象と加算して 0 を保つべき「自己」は -5 ということになります。

つまり、どのような森羅万象の外界が起こっていようとも、それに均衡する形の柔軟な対応と変化が常に自分の中で起こり続けている、ということになります。この「自分と外界とのホメオステータス」を保ち続けている「究極の柔軟性」がシャンカラチャリヤの言う絶対的存在と等価であると言えると、私は思います。

さらに、私は、このプラスマイナス ゼロの状態は、MRI (精神研究所) のポール ウォツラウィックが提唱した「アイデンティティ メンバー」とも関連しているように思えました。

「アイデンティティ メンバー」については、私は、私の CD-ROM 書の『サイバーブック: 悟りのための統合的認識論』の「コミュニケーション分析」ページで以下のように書かせていただいています。

「アイデンティティ メンバーは、ウォツラウィックその他によれば、同じグループの他の任意の数と組み合わせても、その数のアイデンティティを維持するような数です。たとえば、組み合わせ規則として加算が適用されるグループでは、アイデンティティ メンバーはゼロです (たとえば、5 + 0 = 5)。組み合わせ規則が乗算であるグループでは、アイデンティティ メンバーは 1 です (たとえば、5 x 1 = 5) 。ウォツラウィックその他は、例として、位置の全変化からなるグループ (すなわち運動) のアイデンティティ メンバーは不動であり、すべての音からなるグループのアイデンティティ メンバーは無音であると指摘しています。(!)

著者は、ヴェーダンタ心理学/哲学のブラーマンの概念は、森羅万象 (存在) に適用されたものとしてのアイデンティティ メンバーの概念と等しいと見なした場合に、最もよく理解されることができる、と主張します。」

すなわち、この場合は、プラスマイナス ゼロとは違った観点から、自己とは何かの考察を行っていますが、森羅万象が森羅万象たりえさせているベース (無限の絵が描きえる無地のキャンバス、無限の映像を映し出しえるテレビ画面の三色ドットの集合体、無限のワークが可能なコンピュータのハードディスクの初期化された状態、といった比喩が思いつきます) は何かと考えたら、それはアイデンティティ メンバーではないかというのが、ウォツラウィックの主張です。

私は、このモデルは、極めて興味深いと思いますし、「アイデンティティ メンバー = 究極のメタ」の式も成り立つと思います。

さらに、私は、このモデルを使えば、何千年にもわたって宗教戦争を行い、何万人も殺しあってきているように思えるヒンズー (ヴェーダンタ) 教徒と仏教徒との間の確執が解消されると、主張しさえています。

つまり、ヒンズー教徒は神 (ブラーマン) は存在すると主張し、仏教徒は、神は存在せず、単に空 (無) があるだけだ、と主張して対立していますが、私には、前者は同じ森羅万象を乗算の観点から見て、アイデンティティー メンバーは 1 であると主張していて (5 x 1 = 5)、後者は、加算の観点から見てアイデンティティ メンバーは 0 である (5 + 0 = 5) と主張しているだけにすぎないように思えてなりません。

このような、同じ現実を異なる見方で見ていることに関して宗教戦争を起こしているのは、ナンセンスきわまらないと、私には思えます。

あるとき、このことをグリンダー氏に伝えたら、同氏から、即本に書きなさい、と助言されました。

近い将来、「NLP と瞑想」関係の本を書きたいと思っていますので、その中で、この「大発見」について述べてみたいと思っています。

ちなみに、致命的なこととして、森羅万象のアイデンティティ メンバーとしての絶対的存在 (純粋メタのことですが、私は、シャンカラチャリヤ主義者なので、便宜上「ブラーマン」と形容しもします) を実際に体験することは、残念ながら技法としての NLP を通じてでは不可能のように思えます。

NLP は月を指し示す指にすぎませんし、実際に一度も月を見たことのない人は、たとえ NLP を通じて月を見ても、充分な参照機構 (試行錯誤としての経験の深さ) がないので、月として認識せず、自分自身の参照機構にある別のものとして認識してしまうと思います。(一方で、実際に月を知っている人であれば、NLP によって 1 日 86,400 秒月を見続けることが非常に容易になります。)

この、月を見る、すなわち、自我というボックスの外に出て、アイデンティティ メンバー (純粋メタ、絶対的存在、真我、神等とさまざまな呼び方ができるかと思いますが) を実際に経験するためには、瞑想やカウンター カルチャー系の「化学的に誘発された変性意識状態」その他の方法を使う必要があります。

このことが含蓄することには、以下のようなことがあります。

1) NLP を教える側も教わる側も、NLP の外で確固たる参照機構を養う必要がある。

2) 国内の、特にビジネス系 NLP を教えているトレーナーは、自我のボックスの外に出たことのないまま NLP を教えているので、NLP はテクニックの寄せ集め、という評価を受けているように思える。

2) NLP を学んで、あまりにも多くの問題に出会うようになり、NLP を学び続けることを諦める人々が少なからずいるようだが、これは、純粋メタに抜ける方向に向かわずに、左脳的分析のボックスの中にい続けるからのように思われる。

ということで、この参照機構を養うワークが、現在構想中の今後の私の「北岡道場」の最大テーマになる予定です。

Q16 (113): NLP は、アンカーリングのケースのように、即効性があると言われていますが、先生は、過去英国時代に 7 年間自己適用を続けられたそうですが、なぜ同時に NLP は継続する必要があるのでしょうか?

A16 (113): この質問は、NLP は「怠惰の人々」のためにあるのか、それとも「苦行系の人々」のためにあるのか、という質問と関係していると思います。

思うに、人生をうまく生きている人々 (私はこの人々を「天才」と形容しますが) は、プロセスに関しては非常に怠惰で、同時にコンテンツに関しては非常に苦行系であると言えると思います。

言い換えると、天才は、演繹法 (プロセスのエリア) に関しては極めて怠惰で、帰納法 (コンテンツのエリア) に関しては極めて苦行系であると言えますが、逆に、「凡才」は演繹法では苦行系であり、帰納法では怠惰でありたいと思っているように見えるのは、非常に逆説的で、興味深いことだ思います。

つまり、天才は、たとえば 360 度の方向性から 5 度の「成功に向かうベクトル」を見つけることに関しては、怠惰極まりなく、自分が成功せざるを得ない方向を即確定し、その方向に向かって全身全霊を傾けて、日々の継続的な努力と苦行をいっさい惜しみませんが (これは、成功の方向性が予め決まっているので、やればやるほど肯定的な成果が得られるので、何の迷いもなく苦行を継続していくことができるからです)、凡才は、その逆で、どこに向かっていいかの方向性を決めることができないので、何をすべきかのコンテンツについて即解答を得よう得ようとする (= 怠惰性) あまり、また、コンテンツ レベルで試行錯誤していれば、いずれは方向性が見えるだろうと思い込んでいるので (= 苦行系)、結果的に、いつまでたっても天才になれないように見えます。

すなわち、私には、天才も凡才も、怠惰なところと苦行系のところの両方を持ち合わせているように思えますが、「力の入れどころ」がまったく逆なために、その差が生まれているだけのように思えます。

象徴的に言うと、凡才は、自分の頭に電極を一本差し込めば、意識的な努力なしに無意識がすべての適切な処理をし始めて、即外国語が母国人のようにしゃべり始めることができる「魔法の術」を求めているようであり、天才は、自分のすべての努力と苦行がますます肯定的な成果を達成し続けることができるように 100% 間違いない方向性 (プロセス) を「事前に確定」できるような「魔法のベクトル」を探しているように思えます。

ということで、確かに NLP は、今までのでたらめで、否定的な成果しかもたらせないような方向性から 360 度中成功間違いなしの 5 度のベクトルを指し示すことに関しては、奇跡的で、即時的な効果をもたらすことは間違いないことですが、それを日々の、一日 86,400 秒の日常生活の各瞬間に落とし込んで、天才として人生を謳歌し続けていけるようになるためには、「ある程度」の継続的な NLP の自己適用が必要になるのは、論理的帰結としては、むべなるかな、ということになります。

ちなみに、極めて興味深いことに、このような日々の試行錯誤と苦行を忌み嫌っている凡才の方々は、そう言いつつも、自分が即天才になれる魔法の術が見つからないと不平不満を日々ほぼ苦行のように言い続けること自体に飽きたり、辟易せずにいられることは、究極の逆説だと思います。

作成 2024/1/18