以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「旧編 新・これが本物の NLP だ!」第 104 号 (2009.4.12 刊) からの抜粋引用です。
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今回は、「NLP は古いか? 」、「『水平的学習者 vs 垂直的学習者』再考」、「悪循環に陥っている『凡才』 vs 『良循環』に入っている『天才』」のトピックがカバーされています。
1) NLP は古いか?
最近ある生徒さんと話をしていたとき、この方は、「私自身、周りに『30 年も前に始まった NLP はもう古い。私が今実践してい方法論の方が新しい』と言っている人が多かったので、NLP を学んでもあまり意味はない、と思い込んでいましたが、北岡先生のエリクソン催眠ワークや資格コースを受けてみて、これらの人々の意見は間違っていた、ということが実感できました」とおっしゃいました。
私自身、欧米における NLP 四天王レベルの NLP であれば、人間心理の真髄を突いた普遍な人間コミュニケーションの法則を発見しているので、今後仮に何百年経っても、まったく古くなるはずなどない、と確信していますが、日本の市場での見られ方はまったく違うことに極めて驚いた次第でした。
思うに、日本市場では、テクニカルとしての NLP を教えるトレーナーは数多くいても、四天王レベルの深さをもったトレーナーが皆無なことが、この状況を作り出しているのだと思えます。
さらに、この生徒さんは、関連して、「北岡先生の NLP に出会う前は、オリジナルの NLP よりも、それを開発発展させた『派生 NLP』の方が進化していて、オリジナルよりも優れていると思っていましたが、先生の NLP に出会って、この考え方も間違っていたことを知りました」とおっしゃいました。
私は、逆に、すべての「派生 NLP」は、「オリジナル NLP」の「希釈バージョン」です、と訂正させていただきました。
この「事実」は、1975 年の NLP 創始から 1980 年くらいまでの四天王のワークを詳細に (できれば原語で) 研究すれば、それ以降のすべての NLP ワークは、この 5 年間に開発された NLP 体系の「焼き直し」、または単なる「応用」にすぎないことが確認されることで、確かめられえます。
このような、 まったくの事実誤認は、たとえば、日本の茶道や華道の世界で、家元から独立した新しい派の創始者のワークがかなり高い評価を受ける状況から生まれているのではないか、といった考えもあるようです。しかし、1) 四天王が確立したオリジナル NLP は、人間の普遍性を完全マッピングしている、2) 心理学のような「人間の心」を扱う領域では、技術、芸術の領域と比べられないような内面的規律を必要とするので、単に家元から「資格」をもらったくらいで新しい派を創設できるほど単純ではない、いった理由から、NLP に関しては、このことはまったく当てはまらないと思います。
私自身、21 年前に NLP を学び始めたときから、「一番ルーツに近いところで学ぶ」という絶対的鉄則を崩したことはありませんでしたが、一見したところ、なぜ国内ではこの鉄則が通用していないのだろうか、とずっと不思議に思ってきていましたが、以上の指摘を生徒さんから受けることで、初めてその理由が腑に落ちました。
この紙上で、このような状況で日本に輸入されてきている「技術系 NLP」は、実は「本物の NLP」ではない、ということを、改めて強調しておく必要があると思いました。
2) 「水平的学習者 vs 垂直的学習者」再考
私は、本メルマガの第 68 号で、私が 「一を聞いて十を知ることができる」人々を養成できる根拠として、以下のように書かせていただきました。
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このことについては、私の著「5文型とNLPで英語はどんどん上達する」から以下の引用 (172 ~ 175 ページ) をします。(ところで、この本は英語学習本の体裁を取っていますが、もちろん、他の言語学習にも、さらには他の多くの学習分野にも活用できるということは、本メルマガの読者の方々には言わずもがなのことであることはお分かりになると思います。)
「機械的な、『考えない』形での辞書の引き方、単語の覚え方は、単なる『水平的学習』で、『足し算』の勉強法でしかありません。しかし、『垂直的学習』が可能な『掛け算』あるいは『累乗』の勉強法が存在するのです。この場合は、英語学習の理解が『量子飛躍』的に伸びるので、この辞書の引き方が楽しくて仕方なくなるはずです。
その『楽しくて仕方のない』辞書の引き方は、本書で何度か説明してきている『(たとえば、基本文型等の)公式に(たとえば、単語や言い回し等の)詳細を当てはめる』という演繹法的方法と密接に関係しています。
たとえば、辞書で『run』という単語を辞書で引いて、以下の言い回しと訳があったとします。
『run three miles 3マイル走る』
この場合、『数百の英語の長文を、すべて機械的にただただ暗誦する必要がある』と思っている英語学習者は、単に三つの単語とそれに対応する日本語訳しか学べないでしょう(つまり、水平的学習しかできないでしょう)。
しかし、基本五文型で構文分析しようとしている英語学習者にとっては、この言い回しはほぼ無数のことを教えてくれているので、『リソースの宝庫』と見ることができます(つまり、垂直的学習が可能です)。
つまり、『公式に当てはめられた詳細』そのものに捉われず、『この言い回しはどういう公式に当てはめられているのか』を理解しようとする学習者は、とっさに、例文の『run(走る)』は『walk(歩く)』、『go(行く)』、『move(移動する)』、『swim(泳ぐ)』、『advance(前進する)』等、非常に多くの単語(さらに具体的に言うと、『移動を示す自動詞』)と互換可能であり、『three(3)』のかわりには、ありとあらゆる無限の数の数字を入れることが可能であり、『miles(マイル)』のかわりに『mm(ミリ)』、『cm(センチ)』、『m(メータ)』、『km(キロ)』、『yards(ヤード)』、『shakus(尺)』、『ris(里)』など、一定数の単語(『距離の単位を示す名詞』)と入れ替えることができることを理解します。
ということは、驚くべきことですが、その学習者は、この3つの単語から成り立っている言い回しだけで、(二番目の数字は無限の変数があるので)文字通り、誰も否定できない形で、『無限の数の表現』をすでに学習したことになります。
このような辞書の引き方がわかれば、一つの例文を学んだだけで無限の表現法を学習したことになり、いわば、『一を知って十(または無限)を知る』方法を獲得します。
この垂直的学習法は、単語を引けば引くほど『累乗』されていくので、辞書の各ページのすべての行に下線を引く辞書活用法が、ますます楽しくなっていくことは想像に難くないと思います。
つまり、垂直的学習法は、『無限の無限乗』(!)の学習効果と学習加速度を可能にしてくれます。」
以上のこと (特に、「垂直的学習」) は、この本では辞書の引き方として紹介されていますが、もちろん、この学習パターンを職場でのタスク学習、スポーツやパフォーマンス芸術の新技能習得、対人コミュニケーションの向上法、自分との内面コミュニケーションの整理法等、ありとあらゆる分野で必要とされていることは自明です。
ここで、一つ問題となりえるのは、もともと「一を聞いて十を知ることができない」人々が NLP を学ぼうとする傾向があるわけですが、はたして、そういう人が NLP を学んで、そのノウハウを獲得できるか、という点です。
これについて、私は、かなり楽観的ですが、ただ一つだけ条件があると思います。それは、NLP は、生まれて何十年も続いてきている癖となっている自分自身の行動パターンを変えることができる方法論ですが、「怠惰な人々」のための方法論ではない、という条件です。
「一を聞いて十を知ることができない」人々に NLP を学び始めようとする他の理由として、「自分の頭に新しい電極棒を一回だけインストールすれば、即、恒久的に他の人間になれる」という思いがあるようであれば、いつまでたっても「一を聞いて十を知ることができる」能力を身につけれないと思います。
これは、上記の水平的学習 (単たる、足し算的な詳細を記憶していく学習法) を脱却して、垂直学習 (累乗的な、一つの詳細からパターンを見抜いて、その上でそのパターンに当てはまる他の詳細も即認識できる学習法) を身につけるには、一定以上の「試行錯誤」と「忍耐」が必要だからです。
つまり、NLP は、どのように学習すれば自分の能力を飛躍的に伸ばすことができるかという方向性を教えてくれても、その学習の「努力自体」に取って代わることのできる方法論 (そのような魔法の方法論は世の中に存在しないでしょう) ではないことをけっして忘れてはいけません。言い換えれば、NLP は、けっしてどこにも至らない「水平的学習」から最終的に自分の目的が達成できる (それなりの努力が必要な) 「垂直的学習」に移行することを全面的に支援してくれる方法論なのです。(実は、この移行に、(人類史上革命的と言ってもよい) 「量子的飛躍」があるのですが。)
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以上のことについては、(日本だけでなく、世界的な傾向だと思いますが) やはり、「一を聞いて一しかわからない」人で、「自分の頭に新しい電極棒を一回だけインストールすれば、即、恒久的に他の人間になれる」ような近道を求めている人々が NLP を学ぼうとするように思われます。
NLP で可能にしてくれるのは、あくまでも、大海を渡るための海図としての公式の獲得だけであって、真の天才性を実現するためには、日々の出来事にその公式を当てはめ続けることができるだけの忍耐力と首尾一貫性が必要です。
このような努力ができない「怠惰な人」が、いくら NLP を学んでも、「水平的学習者」から「垂直的学習者」に変わることは、私には、不可能なように思えることを改めて再確認したいと思いました。
さらに、このような「水平的学習者」が多いので、 前項の「1) NLP は古いか?」で書いたような、「テクニカル NLP」を教えるトレーナーが市場に横行しているようにも、私には思えてなりません。
3) 悪循環に陥っている「凡才」 vs 「良循環」に入っている「天才」
私は、本メルマガの第 95 号で、ある生徒さんとの以下のようなメールやり取りを紹介させていただきました。
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今回の貴メールには、
> なぜなら、心身症状(きついうつ状態やトラウマのフラッシュバック)
> が出ていてとても苦しいからです。
> このような状態になる前の、とても苦しい身体症状やフラッシュバックに関して
> とある精神科医に次のように尋ねてみました。
> フラッシュバック(制限的アンカリングの突発的発動)があるうちは
> 何をしようにも、身動きが取れなくなってしまいますから。
というふうに「フラッシュバック」がキーワードとして頻繁に現れていますが、これについては、私の場合、「自分自身のボックスから出る前」のフラッシュバックは「地獄」のようでしたが、「自分自身のボックスから出た後」のフラッシュバックは、究極的に肯定的な体験状態しか出てこないようになっていますね。
このことについては、私は、自分のワーク中で、よく、エレベータ恐怖症の人がどのエレベータに乗っても一定の「天才的反応」 (= パニック) を首尾一貫して示せるのは、イチローがアメリカのどの球場にいてもコンスタントに一定数のヒットを打てる天才性と同じです、と言ってきていますよね。
すなわち、グリンダーとバンドラーは、シンドラー製であれ、オーティス製であれ、日立製であれ、三菱製であれ、東芝製であれ、さらには、国内であれ、中国であれ、サハラ砂漠であれ、アマゾンであれ、北極であれ、とにかく一定の形をした鉄製の箱に入ったとたん、間違いなく、首尾一貫性して、ある一定の同じ行動パターン (パニックですが) を何十年も発揮し続けられるということは、野球でいうイチローの天才性とまったく変わらない、ただ前者の行動パターンは非建設的、非生産的である一方で、後者は建設的、生産的である、と結論づけたわけです。
ということは、今まで自分の意思とは裏腹に思わずデスクトップのショートカットを押し続けていた (= フラッシュバック) としたら、そのショートカット先のファイルを書き換えるだけで (あるいは、ファイルを書き換えるかわりに、ただ、ショートカットのデスティネーション (ディレクトリ名) を変えて、他のファイルを立ち上げさせるだけで)、自分のほしい状態にしかアクセスできなくなる (!) ということなので、フラッシュバックのある人は、みごとな「隠れ天才」ですね。
ここに、過去左脳的「究極の耳年増」だった私が右脳的「神秘主義者」に変容したプロセスが示されていると思います。
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上記では、同じメカニズムがエレベータ恐怖症の人とイチローの差を生み出すことが示唆されていますが、この点については、前者を形容する語としては、「悪循環」という表現が存在しますが、後者を形容する語として、「良循環」といった表現が、 日本語でも、英語でも、存在しない事実は非常に興味深いです (英語では、「positive feedback loop (肯定的フィードバック ループ)」という表現しか存在していません)。
このことは、文明自体が、長年にわたって人々の中に「問題志向」のマインドしか作り出してきていないことを意味しています。
人間は、生まれた瞬間は、問題をもっていないことは自明ですが、「集合的無意識」的なパターンが社会の構成員として、後天的に問題をもった人々を作り出しています。
このことに関連して、私は、本メルマガの第 11 号に、以下のように書きました。
「『グリンダーとバンドラーは、...悪循環に陥っていて、常にパニック状態になってしまう人々を見て、その人たちは、外的環境の条件がどのようなものであれ、常に一定の「パニック」という外的及び内的行動を、いついかなるときにおいても首尾一貫して発揮できるという意味において、どの球場のマウンドに立っても常にコンスタントな成績を上げられるプロの天才的な投手のケースと同じように、そのようなパニック患者は一種の「天才」ではないかと見始めました。(この発想の転換は、NLP では「リフレーミング」と呼ばれています。) その上で、グリンダーとバンドラーは、そのような患者が、それまで不適切な内的体験にアクセスするために使っていたまったく同じプロセスを使って、今度は本人の行動の選択肢がさらに広がるような、今までとは異なる、さらに適切な内的体験にアクセスすることが可能になるように支援して、パニック症状を克服することを可能にしました。すなわち、同じプロセスを使って、悪循環を「良循環」に変えることが可能になったのです。』
このことが意味することは、どの人間もすべて同じ現実の中で生きていて、同じ人間としての神経学上の制約に規定されて『世界についてのモデル』を構築している以上、誰でも『天才』になりうるし、誰でも『愚者』になりうるという、非常に『平等博愛』的な態度です。たとえて言うと、同じ料理の材料を使う場合の凡人の料理人と天才の料理人の違いは、何をどうのようにどの順序で使うかというレシピーにしか見つからないことになります。
私自身、幼児期、青年期を通じて、自分は『誰も絶対抜け出たことのないような蟻地獄の中に落ちている』という意識をもち続けていて、そのような絶対脱出不可能な『地獄』から奇跡的に自力で抜け出した人々 (すなわち、いわゆる悟りを開いた人々のことです) が世の中には実際に、数は少ないながら存在してきたことを知って、勇気づけられはしたものの、実際の方法論については見当も付きませんでした。
言い換えれば、人間は生まれたときは、イギリス経験論者のロックが言ったように『タブラ ラサ (生まれたとき人間は白紙で、すべての認識は経験に基づいて学習される)』であるので、私自身、子供のときに、自らであれ人 (たとえば親) から強要された形であれ、一度は自分で新しい思考パターン (プログラミング) を自己学習して、いわば当初は『意識的に』上記の蟻地獄に入ったのですが、いかんせん、一度入った後は、自己学習を無意識化して、どうそこに入ったかをまったく思い出せずにいましたので、このことこそが、私がその蟻地獄から抜け出すことのできなかった最大の理由でした。
青年期以降、私は、かなりのお金と時間を投資して『人間意識』を研究/実験し、セラピー、瞑想、催眠、変性意識等に関連した現存の方法論のほぼすべてが『蟻地獄脱出法』の手段としては不十分であることを認識した後に、真に革命的な自己変革の方法論としての NLP に行き着いたわけですが、なぜこの革新的『コミュニケーション心理学』だけが最終的に、私が自力で蟻地獄の底から這い上がり、完全脱出することを可能にしたか、のそのメカニズムについてよく考えてみると、NLP は、私が、子供のときに自力で蟻地獄に入った、そのときの脳のプログラミング習得時のプロセスの『リバース エンジニアリング (逆行分析)』を可能にしてくれて、これゆえ、自分が蟻地獄に入る前の自分 (タブラ ラサ) までリセットでき、その地点からもう二度と蟻地獄に入らないような行動/思考パターンだけを常に意識的に選択し、身に付けることができるようになったということがわかりました。
つまり、脳のリバース エンジニアリングを (もちろんエンジニアリングそのものも) 可能にさせてくれる NLP を使えば、『誰』でも、その望むように『天才』にも『愚者』にもなれる、と言うことができます。古くから、偉大な瞑想家は、『不幸になるのも、幸福になるのも、すべて自分次第で、自分自身が自分の境遇を作り出している』と (その解決法は提示しないまま) 説いてきていましたが、その具体的な方法論 (脳のリバース エンジニアリング) を人類に初めて提示したのが NLP です。
NLP は確かに『万能薬』ですが、それを学習する (すなわち、新しい行動/思考パターンを身に付ける) には、『それなり』の努力が必要です。しかし、NLP は、この方向に行けば間違いないという道を示してくれるので、NLP の道を歩み出した人々の努力は、必ず報われるようになっています。(ある意味では、自分の『努力』の度合いと自己変革の度合いが正比例するので、逆に言い訳がまったくできなくなってしまいます。) 」
つまり、「悪循環」もしくは「蟻地獄」に入っている私たちが、無意識的に実際に行っていることを意識化、明示化させてくれるのが NLP であり、このことが一度でも意識的、体感的に認識できれば、私たちは、一瞬一瞬信じられない、奇跡的なことを達成し続けていることがわかるようになります (一例としては、私たちは、何の困難性もなしに、母国語である日本語を自由自在に駆使し続けていますが、この能力を「無意識的有能性」の段階まで高めるために、一体どれだけの努力が幼児期に必要であったかについて考えるだけで充分だと思います)。
いったん、私たちが無意識的に行っていることを意識化した時点で、初めて、悪循環を良循環に変えることができる可能性が生まれます。このことは、この意識化以前には不可能ですが、その理由は、人間は、無意識的に行っていることを変えることはできないことによっています。 一度でいいので、自分が無意識的に行っていることを意識化することで、初めて、1) その行為をし続ける、2) 後で行う、3) 今後行うことを止める、の選択肢が生まれ、このことで、「パターン中断」を行うことができるようになり、悪循環を断ち切ることも可能になります。
このように、悪循環に陥っている水平的学習者の「凡才」を、「良循環」に入った垂直的学習者の「天才」に変えることができるのが「本物の NLP」で、このような NLP は、 水平的学習者のちょっとした能力を向上させるだけの「テクニカル NLP」とは、決定的に一線を画しています。