以下の文章は、北岡泰典のメルマガ「新編 新・これが本物の NLP だ!」第 2 号 (2013.4.9 刊) からの抜粋引用です。

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先号でも示唆させていただきましたが、北岡ワークは、いったんミニ悟りを開いた後、普通は、「この世」に戻って来た後は、元の悟っていない自分に戻ってしまう可能性が高い中、日常生活で起こっているすべての事象を悟りの世界とマッピングすることができる方法論を提供するものです。北岡ワークを通じて、現象界で起こっているどんな事象を見ても、いわば恒常的な「悟りのフラッシュバック」(ちなみに、これは実は、「PTSD の超肯定バージョン」です! この脳内の完全配線替えが「北岡式 NLP」で可能になっています) を起こさせることができます。

以上を背景にして、北岡の新たな方向性と試みとして、北岡ワークは「悟りの世界と日常生活の間の翻訳言語」 であることを明示化した上で、 今後、Swami Guhen の『深遠なる意識の旅』メルマガと本『これが本物の NLP だ!』メルマガの交互発行して、 北岡/Swami Guhen ワークを解説する「辞書」もしくは「用語集」を提供させていただきたいと思いました。

以下の『深遠なる意識の旅』メルマガ

http://www.guhen.com/newsletter/006.htm

では、「Swami Guhen 哲学考」を展開し、本メルマガでは、その哲学的考察の NLP の観点からの日常生活への落とし込み方について考察されることになります。

今回は、この二つのメルマガの「交互発行」の二回目で、「Swami Guhen 哲学考」および「NLP 考察」のテーマは、「生命とは」です。


今回は、以下のトピックがカバーされています。

1.NLP 考察、その二/生命とは

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1.NLP 考察、その二/生命とは

『深遠なる意識の旅』メルマガ第 6 号の「Swami Guhen 哲学考、その二/生命とは」では、主に、以下の二点が論じられました。

1.印哲のアドバイタ (非二元論) ベーダンタの「梵我一如説」 (アートマン (真我) とブラーマン (宇宙原理) の同一説)

2.「宇宙全体が一つの生命体で、ありとあらゆる異なるレベルの存在 (実は、『存在』というものは幻想だ [という主張に私は] 同意しますが)、『本体』と言ってもいいのかもしれませんが。ただ 『本体』も幻想かもしれませんが。おそらく『自己組織体』がいい定義かもしれません) は、その全体の部分的な反映でしかなく、[中略] この瞬間瞬間において、自分を含む宇宙は、138 億年のプロセ スを瞬時に反復的に発生させながら、誕生と死滅を繰り返している。」

上記の一点目の「梵我一如説」について、NLP の落とし込みの観点から特記すべきモデルは、「メタ (観察者)」です。

これは、たとえば、付箋紙を使った「知覚ポジション変更」といった NLP 演習がありますが (これは、自分 (第一人称)、相手 (第二人称)、第三者 (第三人称) の三つののポジションを、実際に体を動かしながら (この点が、左脳的、認知論的な従来の心理学的/セラピー的方法論と一線を画しています) 行き来するテクニックで、このことによって、一つの知覚ポジションに固執する傾向にある視点の拡張が達成され、相手とのコミュニケーションの取り方が改善されることになります)、この演習では、通常の三つのポジションを観察するポジションとして、「メタ」の視点が提唱されています。

上記の段落で、NLP は、ほぼすべての演習において、「実際に体を動か」すので、「左脳的、認知論的な従来の心理学的/セラピー的方法論と一線を画して」いる、と指摘しましたが、そのことにとどまらず、この「メタ」の視点を演習の中に導入した事実は、以下のような理由をもとにして、パラダイム シフトにも匹敵するほど「革命」的なことだと、私は見ています。

a) たとえば、「前 NLP」的セラピーであるゲシュタルト療法でも、「空の椅子 (Empty Chair)」というテクニックがあり、創始者のフリッツ パールズは、内的葛藤をもっているクライアントを二つの椅子の前に立たせ、葛藤の二つの部分を各椅子上に想像させた上で、実際にその二つの椅子に交互にクライアントを座らせて、目の前に視覚化されたもう一つの部分に対して、実際に話しかけ、その後、もう一つの椅子に座らせて、同じことを繰り返させるというセッションを好んで頻繁に行いましたが、私の知っているかぎりおいて、ゲシュタルトでは、この二つの葛藤のポジションを見ている「観察者」は、たとえ暗黙的に示唆はされていたとしても、独立した「明示的」なポジションとしては提唱されていませんでした。

b) 北岡は、a) の項目に関して、唯物論の領域から逃れることのできなかった、すべての「前 NLP」的方法論と、目に見えない世界 (悟りの世界) を目に見える世界 (日常生活の世界) に落とし込むためのツールとして活用することが「可能」な NLP とを分け隔てている最大の根拠を一つだけ挙げろと言われたら、それは、「すべての前 NLP 的方法論では含蓄されていただけの『メタ』の視点が NLP で初めて、物質界のツール (すなわち、付箋紙等) によって明示化、見える化されてしまった」ことである、と答えることができます。

実は、この「メタ」の視点と、「梵我一如説」の「梵」すなわち「宇宙原理あるいは神としてのブラーマン」とは、密接な関係があります。私の、シャンカラ式アドバイタ ベーダンタの研究によれば、ブラーマンと「絶対的観照者 (Witness)」は等価 (もしくは、ニアリー イコール) ですが、NLP では、メタのポジションを見ている「メタメタ」のポジションを置き、その「メタメタ」を見ている「メタメタメタ」を置く、というふうに、「観察者」を見る「メタ観察者」を置くプロセスを「永遠」に繰り返すことは可能であるとされていて、論理的必然性においても、この最終的な「最後の観察者」と「絶対的観照者」 (すなわち、ブラーマン、神) は同じものと結論つけざるをえません。

すなわち、NLP は、目に見える世界 (自分という幻想のちっこいボックス) から目に見えない世界 (神をも包含した超メガ ボックス) に抜け出る「パンドラの箱」を開けてしまったという、恐ろしい偉業を達成してしまっています。北岡は、個人的に、この点に関し、畏怖を感じます。

c) 通常は、明示化、見える化できないはずの「絶対的観照者」もしくは「神」がどう見える化できるかについてのメカニズムについては、北岡は、最近、統合失調症の方が、メニューに載っているカレーの写真をカレーそのものだと勘違いして、メニュー自体を食べてしまうときに犯すとされている「論理レベルのタイピング エラー」のモデルを逆手に取った「療法的論理レベルのタイピング エラー」を犯すことで、目に見えない「絶対観照者」を、右脳的に体感しうる、と主張してきています。

このことについては、また別途、本メルマガ上で、詳細な考察を加えることができるかと思います。

d) 以上のことに関連して、私は本メルマガ第 82 号で、以下のように書きました。

* * * * 引用開始 * * * *

この「メタ ポジション」は私が翻訳したグリンダー & ディロージャ著の『個人的天才になるための必要条件』にも出てくる「ゲーデルの不完全性理論」とも関係してきます。同著には以下のような記載があります。

「ケン・キーシー (『カッコーの巣の上で』を著したビートニクス ジェネレーションの作家) がアリゾナのウィンスローで立っていて、カリフォルニアに戻るためにヒッチハイクしているとします。ほとんど継続的に維持される変性意識の中で、彼は自分の環境を知覚していて、サボテンの花、明るい青空、二酸化炭素、速度を落すトラック等の内的表出を抱いています...数時間後、彼は、乗せてくれる車を待つことに疲れ、 (知覚レベルで車またはトラックだけに注意を払う)知覚の環境から分離して、メタポジションに移行します。彼は論理レベルを上に移動し、このことで、それまでは完全にコミットしていた表出が、今抱いている新しい表出の部分集合になります。たとえば、彼は、町角の実際の物理的な場所の背後上方のポジションから鳥瞰図のように自分自身を知覚している場合もあります。彼がこのことを行うやいなや、彼は枠を拡大します。彼がメタ ポジションに移動する前にコミットしていた表出は依然として存在していますが、規模が小さくなり、詳細度が曖昧になり、おそらく自分のいる町の区域、ウィンスロー全体、アリゾナ州、米国南西部といった、 さらに大きな表出の集合に含有されています。論理レベルの移動の一つ一つは、表出に含まれている範囲を拡大しますが、その一方で詳細度が曖昧になります。(…) キーシーが町角に立っている自分を見ているとき、表出者の含蓄されたポジションは、物理的には、町角にいるキーシーのイメージの背後上方です。ここに問題が発生します。ここで、キーシーを論理レベル一つ移動して、町角でキーシーを表出しているポジション、つまり町角のポジションの背後上方のポジションに移すとします。この時点で、この表出には表出者のメタポジション移動その1を含む表出が含まれている、という意味で、最初のメタポジション移動に関して完全な表出をしているキーシーがいます。 しかしながら、このことは、物理的な位置が新しい種類の表出によって含蓄されるが、表出はされていない二番目のメタポジションが作り出されてしまうことで達成されます。このため、どれだけ多くのメタポジション移動を使ったとしても、この問題は再帰的に発生します。」

(同著 161 ページからの引用。ただし、このテキストは、最終稿ではなく草稿段階のバージョンを使っています。)

すなわち、世界を知覚している表出者自身も含めた世界を表出するためには、その人の知覚世界から一歩出て「メタ」のポジションに抜ける必要が絶対あり、この表出者を表出対象に加えるためには、その視点からまた再度メタに抜ける必要がある、ということが無限に起こる必要があるということになります。

もちろん、このメタに出るという行為は「ボックスから外に出る」という行為と密接に関係があり、さらに、私が本メルマガで何度も言及してきている「抜け出しようもない蟻地獄からの脱出法」ともつながっています。

『個人的天才になるための必要条件』の原題は『Turtles All The Way Down (どんどん下に重なっていく無数の亀)』ですが、このタイトルは、メタ ポジションの永遠の「後退」 (もしくは「前進」) のことを意味していると私は考えています。

このような「革命的、奇跡的方法」が、NLP のモデルによってすでに論理的に明示化されているという事実は、私は、ほぼ宗教的な、「神を見た」ほどの畏怖を覚えずにはいられません。

* * * * 引用終了 * * * *

上記の二点目については、よく「ブラーマンの一息がこの現象界を創造・顕在化した」と言われていますが、このことについては、私は、「たとえば、ビックバンが起こったときの一つのパターン (または波動) がさまざまな次元のフィルターを通して物質界に顕在化される際に、現象的には、その裏には原初のパターンが隠されていて、仮に、その各次元のパターンの「変換」のされ方さえ理解できれば、現象界で起こっていることは、すべて、唯一のパターンから派生した現れ方であることが証明されるだろう」という立場を取っています。

以上のことについては、私は、よく、フラクタルのメカニズムを引用します。フラクタル デザインは、単純な式に基づいた演算を行うことにより生成されます。演算の結果を同じ式に再入力しながら、このプロセスが何度も反復されると、永遠に複雑なデザインが生成されますが、元は一つのパターンに基づいています。

このフラクタル パターンの「単純 -> 複雑」の変化は、以下のイラストに表されています。

http://www.creativity.co.uk/creativity/jp/magazine/library/fractal.jpg

このパターンを以下のイラストに表されている「環境、行動、能力、信念、アイデンティティ」の五つの「心身論理レベル」を比較すると、非常に興味深いことが判明します。

http://www.creativity.co.uk/creativity/jp/magazine/library/logical.jpg

すなわち、前者のフラクタル図の一番上 (実は、当初は、上下反対の図だったものを逆転させたものですが) に一つのパターンがあり、それが一つずつレベルを下がるごとに複雑化していますが、同様に、心身論理レベルの「アイデンティティ」レベルの一つのパターンが、各レベルの「フィルター」によって処理されることで、一番下の「環境」レベルでの複雑な見え方が決定されるという考え方も可能です。

この例では、人間の中の五つの情報処理レベルについて考察されていますが、北岡は、同じ一つのパターンの「単純 -> 複雑」の変化が、「素粒子レベルの進化と、たとえば、銀河系、太陽系、地球、鉱物、植物、動物、人間といったレベルの進化」でも起こっていると考えています。

ちなみに、以上のことは、「宗教」的にいえば、「全人類、そして、全存在は、神の子である」ということになるのだと思います。

なお、NLP には「心身論理レベルの整合」演習がありますが、これにより、各レベルのフラクタルの処理のし方が劇的に変化すると、北岡は見ています。

結論としては、フラクタル モデルと「療法的論理レベルのタイピング エラー」のモデル等を使えば、通常は体感できないとされている「絶対観照者」あるいは「神」を体験的に体感することができ、そして、このことによって、「生命 vs 非生命」の二元論も、誕生と死滅も超越した、不死であるブーラマンとの自己同一化も可能になる、と結論づけることができます。

作成 2022/11/2